[11949]
「芸術に進化はない」は納得していますが…
投稿日時:2004年04月30日 15:09
投稿者:けいちゃん(ID:aTNQdXA)
私は高校生頃から学生時代にかけて、FMをエアチェックした雑音だらけのミュージックテープを未だに愛聴しています。
初めからいろんな演奏家で聴き比べるつもりで聴く場合を除いて、誰でも最初になじんだ演奏が一番良いと思ってしまう傾向が強いのではないでしょうか?(刷り込み現象?)これは素人に限らず、プロ、評論家の先生でもそんな感じがします。
最近手に入れた、指がもつれがちな名盤カザルスの無伴奏Vc組曲や、ミスタッチが散見されるこれまた名盤エドウィン・フィッシャーの平均率クラヴィア曲集にガッカリさせられたクチです…。
同意見、反論等お待ちしています。
初めからいろんな演奏家で聴き比べるつもりで聴く場合を除いて、誰でも最初になじんだ演奏が一番良いと思ってしまう傾向が強いのではないでしょうか?(刷り込み現象?)これは素人に限らず、プロ、評論家の先生でもそんな感じがします。
最近手に入れた、指がもつれがちな名盤カザルスの無伴奏Vc組曲や、ミスタッチが散見されるこれまた名盤エドウィン・フィッシャーの平均率クラヴィア曲集にガッカリさせられたクチです…。
同意見、反論等お待ちしています。
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[ 5コメント ]
【ご参考】
[11957]
みな先入観に縛られている
投稿日時:2004年04月30日 19:56
投稿者:Geiger1951(ID:MiYQAQE)
これは全く同感です。
日本の古いレコードマニアは「精神性」という呪縛があるので、エドウィン・フィッシャーを奉りますが、現代の聴衆にアピールできるのは、ジョゼフ・ホフマンやベンノ・モイセヴィッチだと思います。
(Thd Art of Pianoで演奏姿を見ることができます)
でも古い演奏には今に無いよさもありそうです。戦前のシゲティは凄く上手だと思います。ブロニスラフ・フーベルマンも素晴らしいですし。
日本の古いレコードマニアは「精神性」という呪縛があるので、エドウィン・フィッシャーを奉りますが、現代の聴衆にアピールできるのは、ジョゼフ・ホフマンやベンノ・モイセヴィッチだと思います。
(Thd Art of Pianoで演奏姿を見ることができます)
でも古い演奏には今に無いよさもありそうです。戦前のシゲティは凄く上手だと思います。ブロニスラフ・フーベルマンも素晴らしいですし。
[11960]
Re: 「芸術に進化はない」は納得していますが…
投稿日時:2004年04月30日 23:07
投稿者:yam(ID:YUJwSVA)
私も、同じく名盤とされるエネスコの無伴奏ヴァイオリンのソナタとパルティータのあまりの下手さにガッカリさせられました。リパッティと共演した自作のヴァイオリンソナタの演奏は素晴らしいと思いますが。
[12007]
Re: 「芸術に進化はない」は納得していますが…
投稿日時:2004年05月03日 09:48
投稿者:pochi(ID:QlcTZHg)
ヴァイオリン演奏に関しての進化の議論は別として、芸術にも進化は有ります。少なくとも、祭司の一部から解き放たれました。
ヴァイオリン演奏に関しては、絃が進化した事に依って、音程がどんどん高く成って行く傾向が有ります。また、「此処50年間で他の絃との倍音で音を取る傾向が強く成った」と師は申して居りました。
レコードを聴く場合は、刷込みを避ける為、馴染む迄一つの演奏を何回も聴くのは避けて、次々と違う演奏を聴くべきだと思います。
御参考になれば、、、。
ヴァイオリン演奏に関しては、絃が進化した事に依って、音程がどんどん高く成って行く傾向が有ります。また、「此処50年間で他の絃との倍音で音を取る傾向が強く成った」と師は申して居りました。
レコードを聴く場合は、刷込みを避ける為、馴染む迄一つの演奏を何回も聴くのは避けて、次々と違う演奏を聴くべきだと思います。
御参考になれば、、、。
[12029]
Re: 「芸術に進化はない」は納得していますが…
投稿日時:2004年05月04日 01:24
投稿者:kirin(ID:MxZzlIY)
pochiさん
> ヴァイオリン演奏に関しての進化の議論は別として、芸術にも進化は有ります。
> 少なくとも、祭司の一部から解き放たれました。
同感です。
一般論ですが、進化は試行錯誤とその結果としての退化ということがあり、人間に関しては意志と思考による方向付けも行われるので、ある時期は退化する場合もありますね。
ところで、バイオリン演奏で、小さい頃から絶対音感によって平均律で音程を取るのは、ピアノと合わせる場合は便利ですが、全体としてはどうなんでしょうか。試行錯誤の一種なのでは?
(余計な一言でしたか?)
> ヴァイオリン演奏に関しての進化の議論は別として、芸術にも進化は有ります。
> 少なくとも、祭司の一部から解き放たれました。
同感です。
一般論ですが、進化は試行錯誤とその結果としての退化ということがあり、人間に関しては意志と思考による方向付けも行われるので、ある時期は退化する場合もありますね。
ところで、バイオリン演奏で、小さい頃から絶対音感によって平均律で音程を取るのは、ピアノと合わせる場合は便利ですが、全体としてはどうなんでしょうか。試行錯誤の一種なのでは?
(余計な一言でしたか?)
[12038]
Re: 「芸術に進化はない」は納得していますが…
投稿日時:2004年05月04日 03:23
投稿者:pochi(ID:QlcTZHg)
[11527]
Re: Suzuki Method 批判 Suzuchin氏投稿、
[12029]
kirin氏投稿、
私見です。
此等には、関連性が有る様に思われます。
ドロシーは、死んじゃったんですね。昔は良いおばさんでした。
西洋芸術を受容すると云う立場を取る限り、日本のクラシック音楽は、学問の領域を出ず、鼻持ちならないプチブルの香水芬々たる修羅場に成らざるを得無いでしょう。
メニューインの舞台袖で、機会を伺って居た少女の一人だった様な気もする事があります。彼に嫉妬し、尊敬し、その素晴らしい音色で弾き果せた時、胸を撫下ろした経験が有ったやも知れません。
西洋芸術の概念に於て、パリス・ヴィエナに近付いて行く事こそが、進化で有るという、不文律が有る様に思われます。この説を採用すると、文化の中心がニューヨークに移った時、全ての芸術は退化したと言っても言い過ぎでは無いでしょう。紅毛碧眼連中には、妄想死相ナド、全く眼中には無いのです。
究極・至高のモノを求める求道的精神は、芸術に不可欠です。
試行錯誤を麻雀に喩えましょう。
暗槓2つ立直一発鑼鑼鑼鑼鑼鑼鑼鑼では、数え役満になりますが、バイバイと云って日本国を離れ無いと行けない立場に成って仕舞ます。そこで、国士無双を狙います。13面待で、一発修了、刑務所行きでしょう。九連宝灯では、銃殺でしょう。此が17世紀~前世紀迄の黄色人種の宿命です。神佛(暗黒策尊)の手の上で踊っている間は、救われる事も有りますが、手向かいをすると、赤色人種手投斧(トマホーク)が飛んで来ます。此を現代の試行錯誤と呼び習わします。
音楽は「楽」がまず第一で有り、「学」は、手段に過ぎません。其れを大きく勘違いして居る日本の西洋伝統音楽界は、間違って居ると思います。
少年易老樂難成 一寸婬行不可輕
「読替が容易な文章を以て名文とする」定義に拠れば、物真似芸人こそ、西洋伝統音楽の王道で有り、此に個人の趣向を加える事を「独自性」と呼ぶのだと思います。
平均率云々は、専門家玉木先生と、挑戦者pochiウォッチャー氏に任せます。
実践論として、場所柄、立場を弁え、程度を限定して狂った音程を許容出来無いと、気違いに成ります。ところで、盤谷の音階は、オクターブの概念が無いと思いますが、玉木先生は研究対象にしていらっしゃるのでしょうか?私は、真似をする事は出来ますが、脳味噌の機能を少し切り替える必要を迫られます。
門外漢の自論なので、御批判をどうぞ。
[11527]
Re: Suzuki Method 批判
投稿日時:2004年04月03日 12:52
投稿者:Suzuchin(ID:FXJTMZY)
22でVnを始め、経済的時間的事情からずっと独学、45才-51才の間スズキメソッドで習った者です。先生との相性もよく45才からの上達は早かったと感じています。もっと早く習い始めればよかった。室内楽がやれないので今はやめてます。
年4回の発表会があり、1回は合奏と協奏曲などのピアノ付き斉奏、3回は独奏と斉奏。斉奏はチゴイネルワイゼン、メンコン、モーツアルト4,5番、ロンド、ヴィヴァルディその他です。カデンツは選ばれた子たちが1曲ずつ弾きます。いくらVn好きといっても人間怠けるものです。年4回も毎年これらの全曲を復習すればちっとはうまくなるでしょう。でも協奏曲を斉奏するのはなかなか恥ずかしいものでした。
進んだ子は、音階、ローデ、他の協奏曲、バッハ無伴奏、コンクール課題曲などやってました。システムとして悪くないと思います。アマチュアが数年間習うにはよいでしょう。プロになりたい方もよい先生に巡り会えば(運命ですけど)スズキメソッドで始められて充分と思います。音大に行けば立派な先生が大勢居られることでしょうし。
読譜についても得意な生徒さん不得意な生徒さんがいたのですが? スズキがとくに読譜力がつかないという統計でもあるのでしょうか?もっと読譜力を付けたい方はさらなる教材やピアノなどする事になりますが、プロになるには勉強量がふえても当然かもしれませんね。
暗譜のしかたですが、盲目のヴァイオリニストやピアニストは耳から暗譜しているのではないでしょうか、でも立派な音楽家です。耳から暗譜をそんなに心配しなくていいのでは?オケの仲間に音大卒の弱視のVn奏者がいました。この方は楽譜を5センチぐらいの距離に目を近づけて読んでいき、すぐ暗譜で弾いてました。初見は全く出来ませんでしたけどすばらしいヴァイオリニストでした。オケの1日のプログラムを全部アットいう間に憶えてしまうので皆、驚いていました。この方が耳で憶えているか楽譜で憶えているか体で憶えているかはわかりません。
教室の目標のひとつは、プロになってから、協奏曲のソリストが体調悪いなどで出演できないとき、すぐ代役を務められるようにいつも準備しておき、すすんで代役をかってでるというものでした。
批判精神旺盛なかたはドロシーディレイのような方(亡くなりましたけど)に子供の時から習われたら満足なさるのでしょうか?
年4回の発表会があり、1回は合奏と協奏曲などのピアノ付き斉奏、3回は独奏と斉奏。斉奏はチゴイネルワイゼン、メンコン、モーツアルト4,5番、ロンド、ヴィヴァルディその他です。カデンツは選ばれた子たちが1曲ずつ弾きます。いくらVn好きといっても人間怠けるものです。年4回も毎年これらの全曲を復習すればちっとはうまくなるでしょう。でも協奏曲を斉奏するのはなかなか恥ずかしいものでした。
進んだ子は、音階、ローデ、他の協奏曲、バッハ無伴奏、コンクール課題曲などやってました。システムとして悪くないと思います。アマチュアが数年間習うにはよいでしょう。プロになりたい方もよい先生に巡り会えば(運命ですけど)スズキメソッドで始められて充分と思います。音大に行けば立派な先生が大勢居られることでしょうし。
読譜についても得意な生徒さん不得意な生徒さんがいたのですが? スズキがとくに読譜力がつかないという統計でもあるのでしょうか?もっと読譜力を付けたい方はさらなる教材やピアノなどする事になりますが、プロになるには勉強量がふえても当然かもしれませんね。
暗譜のしかたですが、盲目のヴァイオリニストやピアニストは耳から暗譜しているのではないでしょうか、でも立派な音楽家です。耳から暗譜をそんなに心配しなくていいのでは?オケの仲間に音大卒の弱視のVn奏者がいました。この方は楽譜を5センチぐらいの距離に目を近づけて読んでいき、すぐ暗譜で弾いてました。初見は全く出来ませんでしたけどすばらしいヴァイオリニストでした。オケの1日のプログラムを全部アットいう間に憶えてしまうので皆、驚いていました。この方が耳で憶えているか楽譜で憶えているか体で憶えているかはわかりません。
教室の目標のひとつは、プロになってから、協奏曲のソリストが体調悪いなどで出演できないとき、すぐ代役を務められるようにいつも準備しておき、すすんで代役をかってでるというものでした。
批判精神旺盛なかたはドロシーディレイのような方(亡くなりましたけど)に子供の時から習われたら満足なさるのでしょうか?
[12029]
[12029]
Re: 「芸術に進化はない」は納得していますが…
投稿日時:2004年05月04日 01:24
投稿者:kirin(ID:MxZzlIY)
pochiさん
> ヴァイオリン演奏に関しての進化の議論は別として、芸術にも進化は有ります。
> 少なくとも、祭司の一部から解き放たれました。
同感です。
一般論ですが、進化は試行錯誤とその結果としての退化ということがあり、人間に関しては意志と思考による方向付けも行われるので、ある時期は退化する場合もありますね。
ところで、バイオリン演奏で、小さい頃から絶対音感によって平均律で音程を取るのは、ピアノと合わせる場合は便利ですが、全体としてはどうなんでしょうか。試行錯誤の一種なのでは?
(余計な一言でしたか?)
> ヴァイオリン演奏に関しての進化の議論は別として、芸術にも進化は有ります。
> 少なくとも、祭司の一部から解き放たれました。
同感です。
一般論ですが、進化は試行錯誤とその結果としての退化ということがあり、人間に関しては意志と思考による方向付けも行われるので、ある時期は退化する場合もありますね。
ところで、バイオリン演奏で、小さい頃から絶対音感によって平均律で音程を取るのは、ピアノと合わせる場合は便利ですが、全体としてはどうなんでしょうか。試行錯誤の一種なのでは?
(余計な一言でしたか?)
私見です。
此等には、関連性が有る様に思われます。
ドロシーは、死んじゃったんですね。昔は良いおばさんでした。
西洋芸術を受容すると云う立場を取る限り、日本のクラシック音楽は、学問の領域を出ず、鼻持ちならないプチブルの香水芬々たる修羅場に成らざるを得無いでしょう。
メニューインの舞台袖で、機会を伺って居た少女の一人だった様な気もする事があります。彼に嫉妬し、尊敬し、その素晴らしい音色で弾き果せた時、胸を撫下ろした経験が有ったやも知れません。
西洋芸術の概念に於て、パリス・ヴィエナに近付いて行く事こそが、進化で有るという、不文律が有る様に思われます。この説を採用すると、文化の中心がニューヨークに移った時、全ての芸術は退化したと言っても言い過ぎでは無いでしょう。紅毛碧眼連中には、妄想死相ナド、全く眼中には無いのです。
究極・至高のモノを求める求道的精神は、芸術に不可欠です。
試行錯誤を麻雀に喩えましょう。
暗槓2つ立直一発鑼鑼鑼鑼鑼鑼鑼鑼では、数え役満になりますが、バイバイと云って日本国を離れ無いと行けない立場に成って仕舞ます。そこで、国士無双を狙います。13面待で、一発修了、刑務所行きでしょう。九連宝灯では、銃殺でしょう。此が17世紀~前世紀迄の黄色人種の宿命です。神佛(暗黒策尊)の手の上で踊っている間は、救われる事も有りますが、手向かいをすると、赤色人種手投斧(トマホーク)が飛んで来ます。此を現代の試行錯誤と呼び習わします。
音楽は「楽」がまず第一で有り、「学」は、手段に過ぎません。其れを大きく勘違いして居る日本の西洋伝統音楽界は、間違って居ると思います。
少年易老樂難成 一寸婬行不可輕
「読替が容易な文章を以て名文とする」定義に拠れば、物真似芸人こそ、西洋伝統音楽の王道で有り、此に個人の趣向を加える事を「独自性」と呼ぶのだと思います。
平均率云々は、専門家玉木先生と、挑戦者pochiウォッチャー氏に任せます。
実践論として、場所柄、立場を弁え、程度を限定して狂った音程を許容出来無いと、気違いに成ります。ところで、盤谷の音階は、オクターブの概念が無いと思いますが、玉木先生は研究対象にしていらっしゃるのでしょうか?私は、真似をする事は出来ますが、脳味噌の機能を少し切り替える必要を迫られます。
門外漢の自論なので、御批判をどうぞ。
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