[17808]
批判的な聴き方
投稿日時:2004年12月05日 03:30
投稿者:pochi(ID:MYFxM5E)
アマチュア相手に批判的な聴き方をしても仕方が有りません。その人が無料で一生懸命練習して弾いて居るのですから、暖かく見守ってあげるべきでしょう。耳障りなら会場を出れば済む事です。
プロの演奏でも、その時々に依って、体調も有ります。ホロヴィッツなんか5万円も取ってボロボロだったらしいではないですか?1年後の雪辱戦3万円は良かったらしいけど、、、。
私の様にトレイナーなんかして居りますと、演歌を含めて全ての音楽のリズム、音程、フレイズィングが気になって何も聴けないのです。少しお酒でも飲んで耳の感度を下げて聴く事にして居ます。
音楽が何も解って居ない吉田英和の様な評論家は大嫌いです。あんな本を読んで、レコードを聴いて音楽が解った様な気分になって居る人は、本当に気の毒です。
ヴァイオリンの音は、近くで聴くと、耳に厳しい音が出ます。2m以上離れると全く違った音に聞えます。7m以上離れると此れ又違います。マイクを通せば超高域成分が飛ぶので耳への厳しさは然程でも有りません。ホールで聴くと残響が被さって全く違います。
師曰く、音程、リズムは、正確で有れば良いと云う訳では無く、音楽の方向性を決定付けるものなのだそうですから、常に少し狂って居る状態で良いのだそうです。現代とは奏法が違いますね。
日本では、音楽を楽しむ為では無く、批判する為に聴いて居る人が多い様に思いますが、如何なものでしょうか?丸で全員がコンクールの審査員です。而、自分が普段聴いて居るレコードと全く同じに弾かないとイケナイ様です。
減点法ではなく、その人の良いところを見つける聴き方をしたいものです。(自戒を込めて)
プロの演奏でも、その時々に依って、体調も有ります。ホロヴィッツなんか5万円も取ってボロボロだったらしいではないですか?1年後の雪辱戦3万円は良かったらしいけど、、、。
私の様にトレイナーなんかして居りますと、演歌を含めて全ての音楽のリズム、音程、フレイズィングが気になって何も聴けないのです。少しお酒でも飲んで耳の感度を下げて聴く事にして居ます。
音楽が何も解って居ない吉田英和の様な評論家は大嫌いです。あんな本を読んで、レコードを聴いて音楽が解った様な気分になって居る人は、本当に気の毒です。
ヴァイオリンの音は、近くで聴くと、耳に厳しい音が出ます。2m以上離れると全く違った音に聞えます。7m以上離れると此れ又違います。マイクを通せば超高域成分が飛ぶので耳への厳しさは然程でも有りません。ホールで聴くと残響が被さって全く違います。
師曰く、音程、リズムは、正確で有れば良いと云う訳では無く、音楽の方向性を決定付けるものなのだそうですから、常に少し狂って居る状態で良いのだそうです。現代とは奏法が違いますね。
日本では、音楽を楽しむ為では無く、批判する為に聴いて居る人が多い様に思いますが、如何なものでしょうか?丸で全員がコンクールの審査員です。而、自分が普段聴いて居るレコードと全く同じに弾かないとイケナイ様です。
減点法ではなく、その人の良いところを見つける聴き方をしたいものです。(自戒を込めて)
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[ 9コメント ]
[17811]
Re: 批判的な聴き方
投稿日時:2004年12月05日 08:28
投稿者:バイオリン弾き(ID:QCOXMGA)
>音楽が何も解って居ない吉田英和の様な評論家は大嫌いです。あんな>本を読んで、レコードを聴いて音楽が解った様な気分になって居る人>>は、本当に気の毒です。
⇒興味あります。もう少し具体的になぜかを聞かせてください
⇒興味あります。もう少し具体的になぜかを聞かせてください
[17812]
Re: 批判的な聴き方
投稿日時:2004年12月05日 09:08
投稿者:Mom(ID:QCeZJmA)
pochiさん、おひさしぶりです。(^^)
>日本では、音楽を楽しむ為では無く、批判する為に聴いて居る人が多い様に思いますが、如何なものでしょうか?丸で全員がコンクールの審査員です。而、自分が普段聴いて居るレコードと全く同じに弾かないとイケナイ様です。
ものすごく同感です!
>減点法ではなく、その人の良いところを見つける聴き方をしたいものです。
本当に。他人の揚げ足取りのような聞き方したってつまんないでしょうにね。それを生き甲斐にしているような人って結構おられますよね。(^^;)
素直に、ひとつでも感動できる部分があったら、その演奏は価値があるんだとおもいます。
昔、「101回目のプロポーズ」っていうドラマで、武田鉄矢さんが、とてもたどたどしくショパンの別れの歌を演奏する場面がありましたが、あれ、ものすごく感動しましたよ。本人が本当に弾いているんだもの。手タレが代わりに弾いているシラジラしさがなくて、すごく感動したのを覚えています。技術も確かに大切ですけれど、「伝えたい」何かがある演奏とそうでない演奏、そして、聞く側の心がピュアかどうか、によって随分同じ演奏でも感じ方が変わってくるのでしょうね。
>日本では、音楽を楽しむ為では無く、批判する為に聴いて居る人が多い様に思いますが、如何なものでしょうか?丸で全員がコンクールの審査員です。而、自分が普段聴いて居るレコードと全く同じに弾かないとイケナイ様です。
ものすごく同感です!
>減点法ではなく、その人の良いところを見つける聴き方をしたいものです。
本当に。他人の揚げ足取りのような聞き方したってつまんないでしょうにね。それを生き甲斐にしているような人って結構おられますよね。(^^;)
素直に、ひとつでも感動できる部分があったら、その演奏は価値があるんだとおもいます。
昔、「101回目のプロポーズ」っていうドラマで、武田鉄矢さんが、とてもたどたどしくショパンの別れの歌を演奏する場面がありましたが、あれ、ものすごく感動しましたよ。本人が本当に弾いているんだもの。手タレが代わりに弾いているシラジラしさがなくて、すごく感動したのを覚えています。技術も確かに大切ですけれど、「伝えたい」何かがある演奏とそうでない演奏、そして、聞く側の心がピュアかどうか、によって随分同じ演奏でも感じ方が変わってくるのでしょうね。
[17813]
Re: 批判的な聴き方
投稿日時:2004年12月05日 09:28
投稿者:天音のパパ(ID:WCFyZkA)
音楽家が食えるのは、大半の音楽がわからない人達がお金を消費するからなわけで、ちょっと楽器が弾けるから音楽がわかってる気になってる人の方がもっと気の毒です。慢心することなく、音楽を追及し続けていただきたいです。仮に、音楽の理解度のような人口ピラミッドを作るとすると、理解度が高い人が上で普通の△の分布になると思います。裾野の部分をターゲットにした音楽が実に世の中にはびこっています。音楽がわかる人たち(自称でも可)には、この裾野の人たちを少しでも分布図の上になるような活動をして欲しいものです。
[17815]
Re: 批判的な聴き方
投稿日時:2004年12月05日 09:44
投稿者:violink(ID:J5ITlwQ)
音楽でも何でも、比較の対象が沢山あるものを見たり聴いたり(味わったり)するときに、あれよりこちらの方がいいとか悪いとか、そのようなコメントを持つ癖のある人が、世の中に大勢いると思います。(例えばワインなど、そうですよね。)
それぞれに持ち味があるわけで、それはわざわざ良い面を見ようとするまでもなく、現にあるわけなので、それを感じ取れるセンスを失わないようにしたいと思います。
ただ、自分なりに一つの世界を極めようとする過程では、人がやっていることを客観的に捉えて、問題がある場合は、それをしかと捉えてそれも糧としていくことが、自分のレベルの向上に貢献する面があると思いますし、これは、目的意識がきちんとあってのことなので、上記のお話とは違ってくるとは思っています。
violink
それぞれに持ち味があるわけで、それはわざわざ良い面を見ようとするまでもなく、現にあるわけなので、それを感じ取れるセンスを失わないようにしたいと思います。
ただ、自分なりに一つの世界を極めようとする過程では、人がやっていることを客観的に捉えて、問題がある場合は、それをしかと捉えてそれも糧としていくことが、自分のレベルの向上に貢献する面があると思いますし、これは、目的意識がきちんとあってのことなので、上記のお話とは違ってくるとは思っています。
violink
[17817]
Re: 批判的な聴き方
投稿日時:2004年12月05日 10:14
投稿者:ぷーた(ID:NpWFR5k)
pochiさんがこんなにも一般的なことを仰っていると、何かタネアカシがありそうで楽しみですね。
評論家は批判的に聴く事を愉しむ人々でしょう。演奏家と、それを求める聴衆がいるように、評論家とそれを求める読み手がいるわけですが、それぞれまったく別の世界の出来事です。それはそれでよいと思います。
僕は人の演奏を聴くとき、素敵な音色にウットリしたり、アクロバティックな技術にため息をつくよりも、その演奏者が何の目的で、何を言いたいがために演奏しているのかを探るように聴いてしまいます。勝手にそうなってしまうのです。従って批判的に聴いているわけではありませんが、楽しめません。とても疲れます。
同じ演奏でも聞き手の音楽的・人間的なレベル、経験等によって色んな風に聴こえているわけですから、誰かの演奏を聴いて気分を害する人がいても、それは演奏者の責任ではないと言うこともできます。音楽を知ってる人・知らない人、演奏する人・しない人、子ども・大人、すべての人に、それぞれの聞き手の器量に応じた感動や喜びを提供できる境地に立った演奏家を、大家と呼ぶのでしょう。
評論家は批判的に聴く事を愉しむ人々でしょう。演奏家と、それを求める聴衆がいるように、評論家とそれを求める読み手がいるわけですが、それぞれまったく別の世界の出来事です。それはそれでよいと思います。
僕は人の演奏を聴くとき、素敵な音色にウットリしたり、アクロバティックな技術にため息をつくよりも、その演奏者が何の目的で、何を言いたいがために演奏しているのかを探るように聴いてしまいます。勝手にそうなってしまうのです。従って批判的に聴いているわけではありませんが、楽しめません。とても疲れます。
同じ演奏でも聞き手の音楽的・人間的なレベル、経験等によって色んな風に聴こえているわけですから、誰かの演奏を聴いて気分を害する人がいても、それは演奏者の責任ではないと言うこともできます。音楽を知ってる人・知らない人、演奏する人・しない人、子ども・大人、すべての人に、それぞれの聞き手の器量に応じた感動や喜びを提供できる境地に立った演奏家を、大家と呼ぶのでしょう。
[17818]
Re: 批判的な聴き方
投稿日時:2004年12月05日 11:09
投稿者:violink(ID:J5ITlwQ)
ぷーた氏の投稿内容に、音楽を超えた広がりを持つイシューとして共感します。
音楽に限らず、自分が言うことなすことには、自分なりの哲学、思想あるいは意図があるべきだと思っています。周囲を見渡すことが先行してしまって、自分の意図があいまいなままでの言動は、自分に対する背信行為であり、無責任だと考えます。
そう考える人間が他人の言動を観察するときの視点は、やはりその言動の背後にあるその人の哲学、思想あるいは意図というところに向かざるを得ないと思います。
violink
音楽に限らず、自分が言うことなすことには、自分なりの哲学、思想あるいは意図があるべきだと思っています。周囲を見渡すことが先行してしまって、自分の意図があいまいなままでの言動は、自分に対する背信行為であり、無責任だと考えます。
そう考える人間が他人の言動を観察するときの視点は、やはりその言動の背後にあるその人の哲学、思想あるいは意図というところに向かざるを得ないと思います。
violink
[17821]
Re: 批判的な聴き方
投稿日時:2004年12月05日 12:45
投稿者:yc(ID:hEJnKIA)
violinkさんの「人間の言動には哲学、思想、意図が
必要」というのはなかなか厳しい意見です(と、私は
受け止めました)。ぷーたさんの意見にも
頷く部分多しです。
自分の場合、子供の頃は好き嫌いが激しく、一部は「嫌い」
どころか「許せない」に近い捉え方をすることもありました。
これって、自分と他人で好き嫌いが一致しないことがある
という当たり前すぎる事実認識の欠如です。それを地団駄
踏んでみたところで仕方がない。
思うに、何かをとことん批判的に捉える必要がある人は、
自己の内面でそれを崇高な結果へと昇華させて再生産
して欲しいし、そうしているんだろうと思います。その過程で
自身の視野の狭さに気付かされる場合もあるでしょう。
pochiさんの問題提起に戻ると、批判するために聴くのは
日本人特有の気質なのでしょうか。欧米の聴衆はどんな
感じなんでしょうね。
必要」というのはなかなか厳しい意見です(と、私は
受け止めました)。ぷーたさんの意見にも
頷く部分多しです。
自分の場合、子供の頃は好き嫌いが激しく、一部は「嫌い」
どころか「許せない」に近い捉え方をすることもありました。
これって、自分と他人で好き嫌いが一致しないことがある
という当たり前すぎる事実認識の欠如です。それを地団駄
踏んでみたところで仕方がない。
思うに、何かをとことん批判的に捉える必要がある人は、
自己の内面でそれを崇高な結果へと昇華させて再生産
して欲しいし、そうしているんだろうと思います。その過程で
自身の視野の狭さに気付かされる場合もあるでしょう。
pochiさんの問題提起に戻ると、批判するために聴くのは
日本人特有の気質なのでしょうか。欧米の聴衆はどんな
感じなんでしょうね。
[17828]
タネアカシには成りませんが、
投稿日時:2004年12月06日 02:58
投稿者:pochi(ID:MYFxM5E)
バイオリン弾き氏投稿、
音楽を言語で処理出来る訳が無いのです。言語で処理したものは、当然処理した人のバイアスが掛って居ます。自分が聴いて、どの様に感じるかが音楽の本質であって、評論を読んで解った様な気に成るのは馬鹿らしい事だと思います。
yc氏投稿、
米国では、どんな演奏でも拍手喝采です。欧州ではブーイングが起る事も有りますから、ブーイングが起こらない程度の演奏をする必要が有ります。
ぷーた氏投稿の中段は危険です。経験上、精神病になる可能性が非常に高いので、いい加減に聴く訓練をして下さい。何にも考えず、勢いだけで弾いて仕舞う器用な演奏家も沢山居ます。又、考え乍弾いて居る事を観客に感じさせるのは良く無いと思います。
violink氏の投稿[17818]
の中段は、御自分がそう有りたいと云う点では尊敬に値しますが、多くの場合、違う様に思います。人間の言動は殆どが習慣に基づいて居ます。スピーチ・アナリシスをすれば自明です。言葉が滑っている人が沢山いらっしゃいます。
国会の質疑応答は、局長達がテレビを見乍自分達が書いた質疑応答をそのまま読んで居るかどうかをチェックして居ます。それ以外の事を云えば、小選挙区内や自分の息の掛った土建屋に回る予算を減らされます。日本の国会議員は小学生でも出来る事です。
音楽も大先生に言われた通り弾くのが安全でしょうね。此れを突き破るには、テクニックも然る事乍、確固たる美意識が必要でしょう。
曲の構成が手に取る様に図形的に見えて居た時には、全ての演奏が許せなかった自分を省みたのです。
音楽を言語で処理出来る訳が無いのです。言語で処理したものは、当然処理した人のバイアスが掛って居ます。自分が聴いて、どの様に感じるかが音楽の本質であって、評論を読んで解った様な気に成るのは馬鹿らしい事だと思います。
yc氏投稿、
米国では、どんな演奏でも拍手喝采です。欧州ではブーイングが起る事も有りますから、ブーイングが起こらない程度の演奏をする必要が有ります。
ぷーた氏投稿の中段は危険です。経験上、精神病になる可能性が非常に高いので、いい加減に聴く訓練をして下さい。何にも考えず、勢いだけで弾いて仕舞う器用な演奏家も沢山居ます。又、考え乍弾いて居る事を観客に感じさせるのは良く無いと思います。
violink氏の投稿[17818]
[17818]
Re: 批判的な聴き方
投稿日時:2004年12月05日 11:09
投稿者:violink(ID:J5ITlwQ)
ぷーた氏の投稿内容に、音楽を超えた広がりを持つイシューとして共感します。
音楽に限らず、自分が言うことなすことには、自分なりの哲学、思想あるいは意図があるべきだと思っています。周囲を見渡すことが先行してしまって、自分の意図があいまいなままでの言動は、自分に対する背信行為であり、無責任だと考えます。
そう考える人間が他人の言動を観察するときの視点は、やはりその言動の背後にあるその人の哲学、思想あるいは意図というところに向かざるを得ないと思います。
violink
音楽に限らず、自分が言うことなすことには、自分なりの哲学、思想あるいは意図があるべきだと思っています。周囲を見渡すことが先行してしまって、自分の意図があいまいなままでの言動は、自分に対する背信行為であり、無責任だと考えます。
そう考える人間が他人の言動を観察するときの視点は、やはりその言動の背後にあるその人の哲学、思想あるいは意図というところに向かざるを得ないと思います。
violink
国会の質疑応答は、局長達がテレビを見乍自分達が書いた質疑応答をそのまま読んで居るかどうかをチェックして居ます。それ以外の事を云えば、小選挙区内や自分の息の掛った土建屋に回る予算を減らされます。日本の国会議員は小学生でも出来る事です。
音楽も大先生に言われた通り弾くのが安全でしょうね。此れを突き破るには、テクニックも然る事乍、確固たる美意識が必要でしょう。
曲の構成が手に取る様に図形的に見えて居た時には、全ての演奏が許せなかった自分を省みたのです。
[17829]
Re: 批判的な聴き方
投稿日時:2004年12月06日 04:56
投稿者:kokukirin(ID:lEYDWRA)
在京のプロオケの昔の話ですので、言ってもいいかと思いますが、後半の大曲の前にモーツァルトやベートーベンがあると、そのオケは目にみえて手を抜いていました。指揮者によっても違いますが。
それだけでなく、ファーストの5プルートの外側の人は、私の友人もすぐに気づくほど、弾いているフリをしているだけで、全く弾けていないことがよくありました。繰り返しますが、相当昔のことです。
こういうことがあると、批判的になって聞いてしまいます。
同じオケを、あるとき、退屈そうにふんぞり返って知らない指揮者の「悲愴」を聞いていたら、途中から居住まいを正さざるを得なくなりました。終わって、客がいなくなった頃に立ち上がったら、横の方に私同様、ずっと座っていた学生がいました。おそらく、私同様、余韻をずっと感じていたんだと思います。
確かに、知ったかぶりで、批判することで、自分を偉そうに見せる人は腐るほどいますが、ある種の演奏は、そんなもの、ふっ飛ばしてしまうものです。それはいい演奏というより、その演奏家の曲に向き合う姿勢が関係していると思います。「どうだ、私は上手だろう」というような姿勢は演奏に耳を傾けることができる聞き手に「どれどれ」という批判的姿勢を生むものです。
それだけでなく、ファーストの5プルートの外側の人は、私の友人もすぐに気づくほど、弾いているフリをしているだけで、全く弾けていないことがよくありました。繰り返しますが、相当昔のことです。
こういうことがあると、批判的になって聞いてしまいます。
同じオケを、あるとき、退屈そうにふんぞり返って知らない指揮者の「悲愴」を聞いていたら、途中から居住まいを正さざるを得なくなりました。終わって、客がいなくなった頃に立ち上がったら、横の方に私同様、ずっと座っていた学生がいました。おそらく、私同様、余韻をずっと感じていたんだと思います。
確かに、知ったかぶりで、批判することで、自分を偉そうに見せる人は腐るほどいますが、ある種の演奏は、そんなもの、ふっ飛ばしてしまうものです。それはいい演奏というより、その演奏家の曲に向き合う姿勢が関係していると思います。「どうだ、私は上手だろう」というような姿勢は演奏に耳を傾けることができる聞き手に「どれどれ」という批判的姿勢を生むものです。
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