[39785]
ノリントン先生は正しいのか
投稿日時:2009年04月05日 23:12
投稿者:室内楽奏者(ID:MhiIkpc)
証拠に基づく建設的な議論をやりたいものです。
別スレでは
☆必要条件に過ぎないものを十分条件と言いくるめようとする
☆特殊例を一般的と主張する
☆Aの結果がBであるものを、あたかもBがAの原因だと強弁する
というような方もいます。
証拠に基づくとは、ソースが明らかで、誰でも追実験できる意です。
----
ttp://www.kanzaki.com/norrington/roger-interview2004.htmlが
マエストロ・ノリントンの主張を正当に反映しているのか断言はできません。しかしそんなに外れないとすると、ノリントン先生は
「1930年代まではヴィブラートが使われていなかった」
と主張していることになります。
(判断に間違いがあれば指摘をお願いします)
とすると、証拠に基づき、ノリントン先生に反駁できます。
---------
{証拠1}アルバート・サモンズによるエルガーのヴァイオリン協奏曲
(1929年3月18日と4月10日録音:ニュー・クイーンズホール・オーケストラ 指揮ヘンリー・ウッド)
はソロイストは常時ヴィブラートですし、オケも普通に掛けています。Naxos 8.110951
{証拠2}ワーナーヴィジョン・ジャパン発売のDVD
"The Art of Conducting" 『第1巻 』
フェリックス・ワインガルトナー指揮 パリ交響楽団による1932年の記録映画。
ウェーバー「魔段の射手」序曲の演奏において、ヴァイオリンとチェロの大部分の奏者は現代のオケとさほど変わらぬヴィブラートを掛けている。
公平のため付言すれば一部の奏者のヴィブラートは指のヴィブラートであって現代的はものとは異なる。年配の奏者の一部にとくにそれが認められる。
{証拠3}同上DVD フリッツ・ブッシュ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団による1932年の記録映画。
ワーグナー「タンホイザー」序曲 やはりヴァイオリンとチェロで常時ヴィブラートが明らか。
{証拠4}ワーナーヴィジョン・ジャパン発売のDVD
"The Art of Conducting" 『第2巻 』
ウィレム・メンゲルベルク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団の記録映画。
ビセー「アルルの女」第1組曲よりアダージェット、ウェーバー「オペロン」序曲。ヴァイオリンとチェロのパートは常時ヴィブラートを行っている。
{証拠5}私は手元にCDを持ちませんが、作曲者エルガー自身の指揮、ベアトリス・ハリソン(作曲者ひいきのチェリスト)によるエルガーのチョロ協奏曲演奏は、少なくとも独奏者は常時ヴィブラートだそうです。実際に聴かれた方のレポをお願いします。
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Beatrice_Harrison#Recordings
Elgar: Cello concerto (New Symphony Orchestra cond. by Edward Elgar) HMV D1507-9 (3 records).
------
これらよりして、ノリントン先生が主張する学説は疑わしい。
私自身がエルガーやブロッホ、バルトークを演奏するときは常時ヴィブラートを必ず掛けます。常時ヴィブラートこそが作曲者の意図に沿うと考えないわけに行かないからです。
ノリントン先生がエルガーのチェロ協奏曲において石坂団十郎さんに"Senza Vibrato"で弾いてくれないかと依頼したのは、理論的根拠を持たない。故にノリントン先生の個人的趣味に基づくと、私は判断します。
みなさまの反論をお願いします。
別スレでは
☆必要条件に過ぎないものを十分条件と言いくるめようとする
☆特殊例を一般的と主張する
☆Aの結果がBであるものを、あたかもBがAの原因だと強弁する
というような方もいます。
証拠に基づくとは、ソースが明らかで、誰でも追実験できる意です。
----
ttp://www.kanzaki.com/norrington/roger-interview2004.htmlが
マエストロ・ノリントンの主張を正当に反映しているのか断言はできません。しかしそんなに外れないとすると、ノリントン先生は
「1930年代まではヴィブラートが使われていなかった」
と主張していることになります。
(判断に間違いがあれば指摘をお願いします)
とすると、証拠に基づき、ノリントン先生に反駁できます。
---------
{証拠1}アルバート・サモンズによるエルガーのヴァイオリン協奏曲
(1929年3月18日と4月10日録音:ニュー・クイーンズホール・オーケストラ 指揮ヘンリー・ウッド)
はソロイストは常時ヴィブラートですし、オケも普通に掛けています。Naxos 8.110951
{証拠2}ワーナーヴィジョン・ジャパン発売のDVD
"The Art of Conducting" 『第1巻 』
フェリックス・ワインガルトナー指揮 パリ交響楽団による1932年の記録映画。
ウェーバー「魔段の射手」序曲の演奏において、ヴァイオリンとチェロの大部分の奏者は現代のオケとさほど変わらぬヴィブラートを掛けている。
公平のため付言すれば一部の奏者のヴィブラートは指のヴィブラートであって現代的はものとは異なる。年配の奏者の一部にとくにそれが認められる。
{証拠3}同上DVD フリッツ・ブッシュ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団による1932年の記録映画。
ワーグナー「タンホイザー」序曲 やはりヴァイオリンとチェロで常時ヴィブラートが明らか。
{証拠4}ワーナーヴィジョン・ジャパン発売のDVD
"The Art of Conducting" 『第2巻 』
ウィレム・メンゲルベルク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団の記録映画。
ビセー「アルルの女」第1組曲よりアダージェット、ウェーバー「オペロン」序曲。ヴァイオリンとチェロのパートは常時ヴィブラートを行っている。
{証拠5}私は手元にCDを持ちませんが、作曲者エルガー自身の指揮、ベアトリス・ハリソン(作曲者ひいきのチェリスト)によるエルガーのチョロ協奏曲演奏は、少なくとも独奏者は常時ヴィブラートだそうです。実際に聴かれた方のレポをお願いします。
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Beatrice_Harrison#Recordings
Elgar: Cello concerto (New Symphony Orchestra cond. by Edward Elgar) HMV D1507-9 (3 records).
------
これらよりして、ノリントン先生が主張する学説は疑わしい。
私自身がエルガーやブロッホ、バルトークを演奏するときは常時ヴィブラートを必ず掛けます。常時ヴィブラートこそが作曲者の意図に沿うと考えないわけに行かないからです。
ノリントン先生がエルガーのチェロ協奏曲において石坂団十郎さんに"Senza Vibrato"で弾いてくれないかと依頼したのは、理論的根拠を持たない。故にノリントン先生の個人的趣味に基づくと、私は判断します。
みなさまの反論をお願いします。
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【ご参考】
[39786]
Re: ノリントン先生は正しいのか
投稿日時:2009年04月06日 00:00
投稿者:catgut(ID:FGBFJpM)
わが祖国(TOCE-13068)のライナーノートでノリントンはこのように書いていますが。
さらに重要なのは、かのヨアヒムが「純粋な音」と呼んだ響きを実現するため、すべての楽器がヴィブラートを最小限にとどめながら、あるいはごく稀にしか用いずに演奏することだ。どんなオーケストラでも、1920年以前は、
これがごくあたりまえの流儀だった。
(c)ロジャー・ノリントン、1997 訳:木幡一誠
さらに重要なのは、かのヨアヒムが「純粋な音」と呼んだ響きを実現するため、すべての楽器がヴィブラートを最小限にとどめながら、あるいはごく稀にしか用いずに演奏することだ。どんなオーケストラでも、1920年以前は、
これがごくあたりまえの流儀だった。
(c)ロジャー・ノリントン、1997 訳:木幡一誠
[39787]
Re: ノリントン先生は正しいのか
投稿日時:2009年04月06日 01:25
投稿者:pochi(ID:OVMFIBc)
昔の人がどのような演奏をしていたのかは、現場では解りません。文献の引用はcatgut氏に任せるとして、
いい加減に弾き慣れているセミプロオケ等で、「この曲は時代的にノンヴィブラートである。ノンヴィブラートで弾け」と指揮者が云うと、普段とは違って気を付けて弾く様に成るから、結果的に演奏が良くなる。という話を知り合いの指揮者から聞いた事があります。
クラシック音楽はマンネリなので、チョット毛色の違ったノンヴィブラート奏法の演奏は新鮮味があって話題性に長けるのではないか?
ヴィブラート奏法を始めたのはクライスラーではなく、それ以前のイザイではないか?
リンクを読むと、オーケストラでは1920年代~1940年頃、ヴィブラート奏法が「ハリウッド」とともに一般化したとも読めます。
金管のヴィブラートはストコフスキーでしたっけ?リンクを読むとストコフスキー批判が透けて読めます。
個人的趣味として、「エルガーやブロッホ、バルトークを演奏するとき」ノンヴィブラートも有りだと思います。私自身はバッハの無伴奏の16分音符にもヴィブラートを掛ける悪癖?があります。
反論には成っていませんね。
いい加減に弾き慣れているセミプロオケ等で、「この曲は時代的にノンヴィブラートである。ノンヴィブラートで弾け」と指揮者が云うと、普段とは違って気を付けて弾く様に成るから、結果的に演奏が良くなる。という話を知り合いの指揮者から聞いた事があります。
クラシック音楽はマンネリなので、チョット毛色の違ったノンヴィブラート奏法の演奏は新鮮味があって話題性に長けるのではないか?
ヴィブラート奏法を始めたのはクライスラーではなく、それ以前のイザイではないか?
リンクを読むと、オーケストラでは1920年代~1940年頃、ヴィブラート奏法が「ハリウッド」とともに一般化したとも読めます。
金管のヴィブラートはストコフスキーでしたっけ?リンクを読むとストコフスキー批判が透けて読めます。
個人的趣味として、「エルガーやブロッホ、バルトークを演奏するとき」ノンヴィブラートも有りだと思います。私自身はバッハの無伴奏の16分音符にもヴィブラートを掛ける悪癖?があります。
反論には成っていませんね。
[39788]
Re: ノリントン先生は正しいのか
投稿日時:2009年04月06日 08:16
投稿者:catgut(ID:FGBFJpM)
文献担当ですが、この件は以前調べてみました。
ヴィブラート技術自体はヴァイオリン誕生以前から知られているそうです。
リュートなどでも現在のヴァイオリンと同様のヴィブラートが使われていた
とニューグローブ音楽大辞典のヴィブラートの項で見た記憶があります。
イザイも比較的目立つヴィブラートを使ったと言われています。
しかし20世紀初期にヴァイオリニストに強い影響力があったアウアーや
カール・フレッシュはヴィブラートを使い過ぎてはいけないと明確に書いています。
アウアーが1921年に出版したViolin Playing as I teach itで、
連続的なヴィブラートを使おうとする生徒と、それを止めさせようとするアウアーの戦いがアウアー自身によって描かれています。つまり1910年代頃に連続的なヴィブラートを習得しようとするヴァイオリン奏者が増えてきたということでしょう。
アウアーは具体的には「一般的に、のばさない音にはヴィブラートを用いることを禁止し、長い音符がフレーズの中で相互に続いている場合にさえヴィブラートを乱用しないように激しく注意する」(今田理枝訳)と書いています。アウアーの弟子がハイフェッツというのは皮肉ですが、1920年以前に一部のソリストを除いて現在よりヴィブラートが控えめに用いられていたことは間違いないと思います。
ヴィブラート技術自体はヴァイオリン誕生以前から知られているそうです。
リュートなどでも現在のヴァイオリンと同様のヴィブラートが使われていた
とニューグローブ音楽大辞典のヴィブラートの項で見た記憶があります。
イザイも比較的目立つヴィブラートを使ったと言われています。
しかし20世紀初期にヴァイオリニストに強い影響力があったアウアーや
カール・フレッシュはヴィブラートを使い過ぎてはいけないと明確に書いています。
アウアーが1921年に出版したViolin Playing as I teach itで、
連続的なヴィブラートを使おうとする生徒と、それを止めさせようとするアウアーの戦いがアウアー自身によって描かれています。つまり1910年代頃に連続的なヴィブラートを習得しようとするヴァイオリン奏者が増えてきたということでしょう。
アウアーは具体的には「一般的に、のばさない音にはヴィブラートを用いることを禁止し、長い音符がフレーズの中で相互に続いている場合にさえヴィブラートを乱用しないように激しく注意する」(今田理枝訳)と書いています。アウアーの弟子がハイフェッツというのは皮肉ですが、1920年以前に一部のソリストを除いて現在よりヴィブラートが控えめに用いられていたことは間違いないと思います。
[39790]
Re: ノリントン先生は正しいのか
投稿日時:2009年04月07日 01:55
投稿者:カルボナーレ(ID:ETYneJY)
2ヶ月に1回の発刊の「サラサーテ」という弦楽器の雑誌の購入者プレゼントに、SPレコードから録ったチゴイネルワイゼンをテーマにしたCDがありました。
1904年のパブロ サラサーテの演奏がチゴイネルワイゼン+4曲と、1900~1940頃に録音された彼以外の8人のチゴイネルワイゼンのSP盤再生の録音が収録されています。
SP盤ということでフラッターではないとは言い切れませんが、そのCDにより主にソリストのビブラートの比較ができます。
聴いた印象ですが、
ソロという点では、1904年のサラサーテの演奏では、現在に比べると細かく浅めのビブラートが使われています。基本的にはかけていますが、かけないピュアな音もあり、音楽表現の中で使い分けています。
1900年代後半のバックマンの演奏は、サラサーテよりも大きめかつ深めのビブラートが長い音には定常的に使われています。ただし、細かい音の動きと、重音ではかけていないことが多いように聴こえます。ピリッツの1910年代半ばの演奏も同様の傾向です。
フランチェスカッティの1922年の演奏は、重音にもかけており、全体的に現代の演奏とあまり変わりなく聴こえますが、細かい動きのところでかけていないとかけているところがあります。
プシホダの1910年代後半の演奏は、フランチェスカッティ以上に現代の演奏に近いです。メルサの1930年の演奏も同様です。
ヴァイスゲルバーの1928年の演奏は、バックマンやピリッツよりも控えめなビブラートで、フレーズの終わりののばしの音もビブラートなしで弾いています。
イダ ヘンデルの1940年の演奏(生まれからして間違い?)は、基本的にはビブラートをかけるという現代の我々には聞き慣れた演奏です。
ホルストの1920年代後半の演奏のみオケ+ピアノ伴奏です。ソロは基本的にはビブラートをかけるという現代の我々には聞き慣れた演奏です。曲の始まり(普通はオケ伴奏)はソリストがビブラートをかけて加わっている可能性はありますが、オケもビブラートをかけているようであり、途中のゆっくりの所でも低弦がビブラートを用いて音の移り変わりを強調しています。後半のテンポが早くなるところも、フレーズの終わりの音の処理にアタック含めオケもビブラートをかけています。現代に比べると控えめかもしれませんが、結構オケもビブラートをかけています。
1904年のパブロ サラサーテの演奏がチゴイネルワイゼン+4曲と、1900~1940頃に録音された彼以外の8人のチゴイネルワイゼンのSP盤再生の録音が収録されています。
SP盤ということでフラッターではないとは言い切れませんが、そのCDにより主にソリストのビブラートの比較ができます。
聴いた印象ですが、
ソロという点では、1904年のサラサーテの演奏では、現在に比べると細かく浅めのビブラートが使われています。基本的にはかけていますが、かけないピュアな音もあり、音楽表現の中で使い分けています。
1900年代後半のバックマンの演奏は、サラサーテよりも大きめかつ深めのビブラートが長い音には定常的に使われています。ただし、細かい音の動きと、重音ではかけていないことが多いように聴こえます。ピリッツの1910年代半ばの演奏も同様の傾向です。
フランチェスカッティの1922年の演奏は、重音にもかけており、全体的に現代の演奏とあまり変わりなく聴こえますが、細かい動きのところでかけていないとかけているところがあります。
プシホダの1910年代後半の演奏は、フランチェスカッティ以上に現代の演奏に近いです。メルサの1930年の演奏も同様です。
ヴァイスゲルバーの1928年の演奏は、バックマンやピリッツよりも控えめなビブラートで、フレーズの終わりののばしの音もビブラートなしで弾いています。
イダ ヘンデルの1940年の演奏(生まれからして間違い?)は、基本的にはビブラートをかけるという現代の我々には聞き慣れた演奏です。
ホルストの1920年代後半の演奏のみオケ+ピアノ伴奏です。ソロは基本的にはビブラートをかけるという現代の我々には聞き慣れた演奏です。曲の始まり(普通はオケ伴奏)はソリストがビブラートをかけて加わっている可能性はありますが、オケもビブラートをかけているようであり、途中のゆっくりの所でも低弦がビブラートを用いて音の移り変わりを強調しています。後半のテンポが早くなるところも、フレーズの終わりの音の処理にアタック含めオケもビブラートをかけています。現代に比べると控えめかもしれませんが、結構オケもビブラートをかけています。
[39792]
Re: ノリントン先生は正しいのか
投稿日時:2009年04月07日 07:25
投稿者:catgut(ID:FGBFJpM)
すでにQBさまから紹介されていますが、「未来のための演奏論」内藤彰著の関連資料として20世紀初期の音源が以下に掲載されています。
ttp://tnco.or.jp/mirai.html
音資料(14) - 当時の歌手の幅の狭いヴィブラート(p.122)
音資料(15) - わずかなヴィブラートやポルタメントが特徴的なヨハン・シュトラウス自身の演奏(p.126)
音資料(16) - ヨアヒムによる特徴的な抑揚(p.128)
音資料(17) - サラサーテの軽いヴィブラートによる「ツィゴイネルワイゼン」(p.129)
ttp://tnco.or.jp/mirai.html
音資料(14) - 当時の歌手の幅の狭いヴィブラート(p.122)
音資料(15) - わずかなヴィブラートやポルタメントが特徴的なヨハン・シュトラウス自身の演奏(p.126)
音資料(16) - ヨアヒムによる特徴的な抑揚(p.128)
音資料(17) - サラサーテの軽いヴィブラートによる「ツィゴイネルワイゼン」(p.129)
[39793]
Re: ノリントン先生は正しいのか
投稿日時:2009年04月07日 09:46
投稿者:Xin(ID:EZKRRpQ)
ttp://www.youtube.com/watch?v=lV_YXtUs_Ow
Joseph Joachim - Brahms' Hungarian Dance No.2 (1903)
In 1903, He recorded four Violin pieces for Gramophone & Typewriter company.
Youtubeで検索すると1900年代初頭の録音がたくさんみつかります。
1800年代にレコードが発売されているので、
このころの録音がないかとさがしています
[39794]
Re: ノリントン先生は正しいのか
投稿日時:2009年04月07日 20:36
投稿者:室内楽奏者(ID:MhiIkpc)
熱心な議論、ありがとうございます。
とても参考になり有益であり、感心します。
証拠として私が尊重したい優先順位は
動画>録音>>演奏家の発言ないし書いたもの>聴いた人の書いたもの、なんですね。
動画は王道です。絶対にまぎれません。
サイレントであっても大きな証拠になります。
録音はとくにオケの場合あいまいになりやすく、「掛けていると聴こえる」「いや掛けて居ない」と論争になります。聴覚って主観的でどうとでも感じられますからね…。
1932年の
(1)ワインガルトナー+パリ響(1932年)
(2)ブッシュ+ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
(3)メンゲルベルク+コンセルトヘボー(これのみ1931年)
に加え、
(4)エーリヒ・クライバー+ベルリン国立歌劇場(1932年)
をも証拠として取り上げます。
(1)~(4)すべて記録映画です。
チェロとヴァイオリンのトュッティ奏者に常時ヴィブラートが立証されました。
皆さんの強い反論もないようです。
ただし、私の観察ではどうやらコントラバスは掛けていないようにも見えますね。
ところが…
ttp://www.kanzaki.com/norrington/roger-nyt200302.html
ノリントンの発言:
>>>>偉大なオーストリアのバイオリニストであるフリッツ・クライスラーが、カフェの音楽家やハンガリーやジプシーのバイオリン弾きのスタイルを取り入れて、この方法を始めたように思われます。
-----
カフェやロマの音楽が下品で、西欧の正しい伝統でない、という差別意識が感じられます。むしろ事実は正反対であって、カフェやロマの音楽に教養ある西欧の音楽家が惹かれていたと考えたほうが謙虚でしょう。ブラームスのCl.5重奏や、ハンガリー舞曲集がその不動の証拠です。正統派の音楽家たちはカフェやロマの音楽を尽きぬ霊感の井戸としていたと申しても不当ではないでしょう。
ノリントン発言続き:
>>>>20年代の初期には、流行に敏感でエンターテインメント志向のフランスの奏者たちが絶え間ないビブラートを試し始め、そして20年代後半にはイギリス人がその先例に倣いました。
>>>しかし、高潔なドイツや大きなアメリカの団体の大部分は、30年代になるまで手を染めませんでした。ベルリン・フィルは1935年まではっきりしたビブラートの録音は出てきませんし、ウィーン・フィルは1940年までありません。
-----
ここにも、フランスが「エンターテインメント志向」というような、定量化できない形容詞を交えた、感情的な固定観念が露わですね。「高潔なドイツ」とは語るに落ちた言い草で白けてしまいます。
私は以下のような意見を持っております。ドイツ正統派のオケは音楽美意識の変遷があったにせよ、1930年代前半には既に大半の奏者がcontinuous vibratoをもちいて居た証拠は動かない。
だから「20世紀前半のオケにはピュア・トーンが普遍的」というノリントンの持論はあまりに言い過ぎであり事実を曲げるものである。
何故ノリントンは事実を曲げてまでこんなことを言い立てるのか、それは彼が心底「ピュアトーン大好き」だから、と思います。幸運にも音楽性に富む指揮者で、自分の「大好き」を人にやらせる力があったということではないでしょうか。でも彼の「宣教」をあまり真に受けると真実が捻じ曲げられる危険を感じます。ヴィブラート様式の変遷などというのはよほど調べないとわからない分野です。Xin氏の言われる音源が入手できないか私も興味しんしんです。SPの復刻版をますます収集したくなります。
とても参考になり有益であり、感心します。
証拠として私が尊重したい優先順位は
動画>録音>>演奏家の発言ないし書いたもの>聴いた人の書いたもの、なんですね。
動画は王道です。絶対にまぎれません。
サイレントであっても大きな証拠になります。
録音はとくにオケの場合あいまいになりやすく、「掛けていると聴こえる」「いや掛けて居ない」と論争になります。聴覚って主観的でどうとでも感じられますからね…。
1932年の
(1)ワインガルトナー+パリ響(1932年)
(2)ブッシュ+ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
(3)メンゲルベルク+コンセルトヘボー(これのみ1931年)
に加え、
(4)エーリヒ・クライバー+ベルリン国立歌劇場(1932年)
をも証拠として取り上げます。
(1)~(4)すべて記録映画です。
チェロとヴァイオリンのトュッティ奏者に常時ヴィブラートが立証されました。
皆さんの強い反論もないようです。
ただし、私の観察ではどうやらコントラバスは掛けていないようにも見えますね。
ところが…
ttp://www.kanzaki.com/norrington/roger-nyt200302.html
ノリントンの発言:
>>>>偉大なオーストリアのバイオリニストであるフリッツ・クライスラーが、カフェの音楽家やハンガリーやジプシーのバイオリン弾きのスタイルを取り入れて、この方法を始めたように思われます。
-----
カフェやロマの音楽が下品で、西欧の正しい伝統でない、という差別意識が感じられます。むしろ事実は正反対であって、カフェやロマの音楽に教養ある西欧の音楽家が惹かれていたと考えたほうが謙虚でしょう。ブラームスのCl.5重奏や、ハンガリー舞曲集がその不動の証拠です。正統派の音楽家たちはカフェやロマの音楽を尽きぬ霊感の井戸としていたと申しても不当ではないでしょう。
ノリントン発言続き:
>>>>20年代の初期には、流行に敏感でエンターテインメント志向のフランスの奏者たちが絶え間ないビブラートを試し始め、そして20年代後半にはイギリス人がその先例に倣いました。
>>>しかし、高潔なドイツや大きなアメリカの団体の大部分は、30年代になるまで手を染めませんでした。ベルリン・フィルは1935年まではっきりしたビブラートの録音は出てきませんし、ウィーン・フィルは1940年までありません。
-----
ここにも、フランスが「エンターテインメント志向」というような、定量化できない形容詞を交えた、感情的な固定観念が露わですね。「高潔なドイツ」とは語るに落ちた言い草で白けてしまいます。
私は以下のような意見を持っております。ドイツ正統派のオケは音楽美意識の変遷があったにせよ、1930年代前半には既に大半の奏者がcontinuous vibratoをもちいて居た証拠は動かない。
だから「20世紀前半のオケにはピュア・トーンが普遍的」というノリントンの持論はあまりに言い過ぎであり事実を曲げるものである。
何故ノリントンは事実を曲げてまでこんなことを言い立てるのか、それは彼が心底「ピュアトーン大好き」だから、と思います。幸運にも音楽性に富む指揮者で、自分の「大好き」を人にやらせる力があったということではないでしょうか。でも彼の「宣教」をあまり真に受けると真実が捻じ曲げられる危険を感じます。ヴィブラート様式の変遷などというのはよほど調べないとわからない分野です。Xin氏の言われる音源が入手できないか私も興味しんしんです。SPの復刻版をますます収集したくなります。
[39796]
Re: ノリントン先生は正しいのか
投稿日時:2009年04月07日 22:35
投稿者:catgut(ID:FGBFJpM)
Szigeti on the Violin(日本語訳タイトル:シゲティのヴァイオリン演奏技法)より
Gives a glimpse of how critically and with what reluctance the vibrato
-- now indispensable -- was regarded around the middle of the
nineteenth century, and supplements the preceding chapter with
some impressions of Joachim's playing
19世紀の中頃に(現在は不可欠の)ヴィブラートが如何に批判的に、如何に嫌悪感をもって見られていたかを一瞥する;そしてヨアヒムの奏法の印象を前章に補足する。
シゲティはこう書いています。
私が仲間や生徒にイザイやフーベルマンの録音を聴かせる時にはいつも、彼らに今日流行している基準によって判断してはいけない、そして時代精神に根ざす独特の表現を考慮に入れるように注意する。(中略) 我々が口をそろえて賞賛する録音が21世紀の変わり目の頃の人たちの耳にはどう聞こえるであろうか。
Gives a glimpse of how critically and with what reluctance the vibrato
-- now indispensable -- was regarded around the middle of the
nineteenth century, and supplements the preceding chapter with
some impressions of Joachim's playing
19世紀の中頃に(現在は不可欠の)ヴィブラートが如何に批判的に、如何に嫌悪感をもって見られていたかを一瞥する;そしてヨアヒムの奏法の印象を前章に補足する。
シゲティはこう書いています。
私が仲間や生徒にイザイやフーベルマンの録音を聴かせる時にはいつも、彼らに今日流行している基準によって判断してはいけない、そして時代精神に根ざす独特の表現を考慮に入れるように注意する。(中略) 我々が口をそろえて賞賛する録音が21世紀の変わり目の頃の人たちの耳にはどう聞こえるであろうか。
[39797]
Re: ノリントン先生は正しいのか
投稿日時:2009年04月07日 23:12
投稿者:pochi(ID:OVMFIBc)
>>1930年代前半には既に大半の奏者がcontinuous vibratoをもちいて居た証拠は動かない。
***これを1920年代に換えたらどうなんでしょう。
***これを1920年代に換えたらどうなんでしょう。
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