ヤッシャ・ハイフェッツ / Jascha Heifetz 掲示板に投稿 [ 英語/日本語| 英字/カナ| 英字/カナ| 英字/カナ| 掲示板 ] 1901年02月02日~1987年12月10日Russia - America 所属音楽学校:サンクトペテルブルク国立音楽院(学生)期間:1910年~不明 師匠:レオポルト・アウアー / Leopold Auer弟子:カルマン・バニャーク / Kalman Banyákエンドレ・グラナト / Endre Granatポール・ローゼンタル / Paul Rosenthalピエール・アモイヤル / Pierre Amoyalユージン・フォドア / Eugene Fodor清水高師 / Takashi Shimizu亀井由紀子 / Yukiko Kameiニコラス・チュマチェンコ / Nicolas Chumachencoエレイン・スコロディン / Elaine Skorodin ヤッシャ・ハイフェッツ(RCAのジャケットより引用) 1901年、当時ロシア帝国のリトアニア・ヴィリニュス生まれ。演奏旅行中、祖国に革命が起きたため帰国を断念、アメリカにとどまった。ヴァイオリンの手ほどきを地元オーケストラのヴァイオリン奏者であった父に受け、9歳時に当時の名教師、レオポルト・アウアー門下となる。同門下にはエフレム・ジンバリスト、ミッシャ・エルマン、ナタン・ミルシテインなど、錚々たる大家が名を連ねる。 ハイフェッツの神懸り的なテクニックには他に比類がなく、すべてのヴァイオリン奏者は彼のことをおいそれと批判をすることはできないだろう。20世紀初頭頃までのクラシック音楽の演奏には曖昧さが許され、またかえってそれをよしとする風潮があったと言える。フリッツ・クライスラーやエルマンの録音からは、技術的問題も含め、譜面に指示のない表現をよく行うことに気付く。その良し悪しについてはひとまず置いておき、当時は奏者の個性を前面に出す事が重んじられていたようである。 これに対してハイフェッツは、冷静かつ正確に、一切の妥協を排除した解釈を行なった。現代では作曲者の意図を最も適切に表現する事が重んじられているが、これはハイフェッツによって道筋が付けられたことと言っても過言ではない。言いかえれば、そのお陰で後のヴァイオリニスト達が苦労したのである。当時のヴァイオリニストからもハイフェッツが驚きをもって捉えられていた逸話として、その実演を初めて聴いたクライスラーがジンバリストに向かって「私も君もヴァイオリンを膝に打ちつけて壊した方が良さそうだ」と語ったと伝えられる。また、それまで録音時代の先頭を走っていたヤン・クーベリックは、ハイフェッツにその座を奪われたとも言われる。 鋭い運弓と力強いヴィブラートによって創り出されるその音色は非常に特徴的である。演奏家それぞれの個性などという次元ではなく、ハイフェッツがヴァイオリンを奏でることで、別質の新しい楽器がそこにあるかのごとく錯覚を起こしそうになる。その余りに強烈な個性故に、好みが別れることもあるだろう。だが、その演奏スタイルは協奏曲から小品に至るまで他に得難い魅力に溢れている。 ハイフェッツは1917年にRCA初録音を行い、以降55年にわたりヴァイオリンのおよそ主要なレパートリーをほとんど録音している。この中には、ハイフェッツが紹介することで再評価された作品や、ハイフェッツに感化されて作曲されたもの、またハイフェッツ自身により演奏会用に編曲されたものも多く含まれている。どの曲の録音も素晴らしいが、スコットランド幻想曲はこれまでに彼と比肩するほどに消化できている演奏は多くはない。またコルンゴルトの協奏曲も、20世紀中はほぼハイフェッツによる演奏・録音のみが孤高の存在であった。小品もまた、カミソリのような技巧の切れ味と歌い回しの粋さが同居しており、ヴィエニャフスキの華麗なるポロネーズは通常のヴァイオリン奏法とは違う次元にあるかの如くの凄まじい演奏で一聴の価値があるし、自ら編曲を手掛けた有名なホラ・スタッカートやガーシュウィンの諸作品もハイフェッツの代名詞的な存在である。 日本では1923年、1931年の2度、公演を行っている。1971年には演奏活動から退き、1987年にロスアンジェルスで死去。当時日本の一般紙でも大きく取り上げられ、20世紀を代表する大巨匠の喪失が惜しまれた。
(RCAのジャケットより引用)
1901年、当時ロシア帝国のリトアニア・ヴィリニュス生まれ。演奏旅行中、祖国に革命が起きたため帰国を断念、アメリカにとどまった。ヴァイオリンの手ほどきを地元オーケストラのヴァイオリン奏者であった父に受け、9歳時に当時の名教師、レオポルト・アウアー門下となる。同門下にはエフレム・ジンバリスト、ミッシャ・エルマン、ナタン・ミルシテインなど、錚々たる大家が名を連ねる。
ハイフェッツの神懸り的なテクニックには他に比類がなく、すべてのヴァイオリン奏者は彼のことをおいそれと批判をすることはできないだろう。20世紀初頭頃までのクラシック音楽の演奏には曖昧さが許され、またかえってそれをよしとする風潮があったと言える。フリッツ・クライスラーやエルマンの録音からは、技術的問題も含め、譜面に指示のない表現をよく行うことに気付く。その良し悪しについてはひとまず置いておき、当時は奏者の個性を前面に出す事が重んじられていたようである。
これに対してハイフェッツは、冷静かつ正確に、一切の妥協を排除した解釈を行なった。現代では作曲者の意図を最も適切に表現する事が重んじられているが、これはハイフェッツによって道筋が付けられたことと言っても過言ではない。言いかえれば、そのお陰で後のヴァイオリニスト達が苦労したのである。当時のヴァイオリニストからもハイフェッツが驚きをもって捉えられていた逸話として、その実演を初めて聴いたクライスラーがジンバリストに向かって「私も君もヴァイオリンを膝に打ちつけて壊した方が良さそうだ」と語ったと伝えられる。また、それまで録音時代の先頭を走っていたヤン・クーベリックは、ハイフェッツにその座を奪われたとも言われる。
鋭い運弓と力強いヴィブラートによって創り出されるその音色は非常に特徴的である。演奏家それぞれの個性などという次元ではなく、ハイフェッツがヴァイオリンを奏でることで、別質の新しい楽器がそこにあるかのごとく錯覚を起こしそうになる。その余りに強烈な個性故に、好みが別れることもあるだろう。だが、その演奏スタイルは協奏曲から小品に至るまで他に得難い魅力に溢れている。
ハイフェッツは1917年にRCA初録音を行い、以降55年にわたりヴァイオリンのおよそ主要なレパートリーをほとんど録音している。この中には、ハイフェッツが紹介することで再評価された作品や、ハイフェッツに感化されて作曲されたもの、またハイフェッツ自身により演奏会用に編曲されたものも多く含まれている。どの曲の録音も素晴らしいが、スコットランド幻想曲はこれまでに彼と比肩するほどに消化できている演奏は多くはない。またコルンゴルトの協奏曲も、20世紀中はほぼハイフェッツによる演奏・録音のみが孤高の存在であった。小品もまた、カミソリのような技巧の切れ味と歌い回しの粋さが同居しており、ヴィエニャフスキの華麗なるポロネーズは通常のヴァイオリン奏法とは違う次元にあるかの如くの凄まじい演奏で一聴の価値があるし、自ら編曲を手掛けた有名なホラ・スタッカートやガーシュウィンの諸作品もハイフェッツの代名詞的な存在である。
日本では1923年、1931年の2度、公演を行っている。1971年には演奏活動から退き、1987年にロスアンジェルスで死去。当時日本の一般紙でも大きく取り上げられ、20世紀を代表する大巨匠の喪失が惜しまれた。