ユリアン・シトコヴェツキー / Julian Sitkovetsky 掲示板に投稿 [ 英語/日本語| 英字/カナ| 英字/カナ| 英字/カナ| 掲示板 ] 1925年11月07日~1958年02月23日Soviet 所属音楽学校:モスクワ国立音楽院(学生)期間:不明~不明 師匠:アブラム・ヤンポルスキー / Abram Yampolsky弟子:なし/不明 コンクール受賞歴:1952年 第2回 ヘンリク・ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール 第2位1955年 第3回 エリザベート王妃国際音楽コンクール 第2位 1925年11月7日にキエフの音楽一家に生まれる。 4歳の頃に、父グリゴリーに最初の手ほどきを受けた後、キエフ中央音楽学校のダヴィット・ベルティエ教授の教えを受けた。8歳の時、選ばれてソ連に来ていたジャック・ティボーの前で演奏し、その翌年にはキエフ交響楽団とメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調を演奏している。1938年4月のキエフ中央音楽学校創立25周年に際しては、モスクワでチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏した。 その後モスクワ音楽院に入り、名教師アブラム・ヤンポルスキー教授のクラスで研鑚を積んだ。1945年モスクワで開かれた全ソ連青少年コンクールのヴァイオリン部門で優勝し、その2年後のプラハの青少年音楽祭で、レオニード・コーガン、イゴール・ベスロドニーと第1位を分け合った。 1950年ピアニストのベラ・ダヴィドヴィチと結婚し、翌年から1955年にかけて、ベルリン,ワルシャワ,ブダペスト,ブカレストなど、ソ連の外側で盛んに演奏活動を行い、さらにヴィオリストのルドルフ・バルシャイらとチャイコフスキー弦楽四重奏団を結成するなど、室内楽にも興味を示した。 1952年ポーランドのポズナニで開催された第2回ヴィエニャフスキ国際コンクールに出場し、第2位になる(第1位はイーゴリ・オイストラフ)。1955年のエリザベート王妃国際コンクールに出場し、第2位になった。 1956年肺ガンを患い、闘病生活に入る。ユーディ・メニューイン、アイザック・スターン、ダヴィッド・オイストラフ、ロストロポヴィチ、ロジェストヴィンスキーからベルギーのエリザベート王妃まで多くの人々が彼の病気を治そうと援助したが、甲斐なく、2歳になる息子ドミトリーを残して1958年2月23日モスクワで32歳の若さで世を去った。 2001年06月21日 吉会芸術活動促進部主任代行
1925年11月7日にキエフの音楽一家に生まれる。
4歳の頃に、父グリゴリーに最初の手ほどきを受けた後、キエフ中央音楽学校のダヴィット・ベルティエ教授の教えを受けた。8歳の時、選ばれてソ連に来ていたジャック・ティボーの前で演奏し、その翌年にはキエフ交響楽団とメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調を演奏している。1938年4月のキエフ中央音楽学校創立25周年に際しては、モスクワでチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏した。
その後モスクワ音楽院に入り、名教師アブラム・ヤンポルスキー教授のクラスで研鑚を積んだ。1945年モスクワで開かれた全ソ連青少年コンクールのヴァイオリン部門で優勝し、その2年後のプラハの青少年音楽祭で、レオニード・コーガン、イゴール・ベスロドニーと第1位を分け合った。
1950年ピアニストのベラ・ダヴィドヴィチと結婚し、翌年から1955年にかけて、ベルリン,ワルシャワ,ブダペスト,ブカレストなど、ソ連の外側で盛んに演奏活動を行い、さらにヴィオリストのルドルフ・バルシャイらとチャイコフスキー弦楽四重奏団を結成するなど、室内楽にも興味を示した。
1952年ポーランドのポズナニで開催された第2回ヴィエニャフスキ国際コンクールに出場し、第2位になる(第1位はイーゴリ・オイストラフ)。1955年のエリザベート王妃国際コンクールに出場し、第2位になった。
1956年肺ガンを患い、闘病生活に入る。ユーディ・メニューイン、アイザック・スターン、ダヴィッド・オイストラフ、ロストロポヴィチ、ロジェストヴィンスキーからベルギーのエリザベート王妃まで多くの人々が彼の病気を治そうと援助したが、甲斐なく、2歳になる息子ドミトリーを残して1958年2月23日モスクワで32歳の若さで世を去った。
2001年06月21日 吉会芸術活動促進部主任代行