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自己の内面と音楽 | ヴァイオリン掲示板

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雑談・その他 13 Comments
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自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月05日 17:08
投稿者:pochi(ID:EoIkiXM)
自己の内面と真摯に向き合わない音楽家が居るのでしょうか?
自己の内面と真摯に向き合わないで音楽家が出来るのでしょうか?

自己の内面の掘り下げをするから、薬に奔ったり、お酒に溺れたり、最悪の場合は自殺をしたりするのです。友人の多くは事故や病気や自殺で死にました。

tama氏、貴殿も音楽家でしょう。自己の内面を掘り下げたでしょう。私は、自己の内面を掘り下げ、自分自身が如何に品性下劣で知性が無く、痴性的で、恥に塗れた存在で有る事を認識するに至ったのです。

私は、私自身が本当に恥ずかしいのです。若気の至りで疾風の如く「ヴァイオリン弾き紛い」をしていましたが、自分の実力は自分で解っています。私は、下手クソです。日本のプロオケには、ヴァイオリン・ヴィオラで入団する実力は絶対にありません。

生きていること自体が恥ずかしい位ですが、たまたま、この様な場所を提供して下さっている「f Strings」社の掲示板で、私の経験や知識の一部を、皆様と分かち合いたいと思っているだけなのです。

時々、嵩を括った投稿をして、お叱りを受けますが、それは、御鞭撻として甘受致します。

素朴で牧歌的な掲示板になればと、最近努力している心算ですが、失礼な発言であれば、訂正・お詫びをさせて戴きます。
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Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年03月03日 06:41
投稿者:pochi(ID:EyA4ZDM)
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Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年03月02日 03:38
投稿者:kirin(ID:JnA2WZQ)
TORUさん>
> 純粋に曲に出会おうとして、
> 既存の演奏技術や既存の解釈を評価してゆくことが
> 実は大変主観的な行為のような気もします。

うまく書き表わせるかどうかわかりませんが、たとえば、「指輪物語」の本質はどこにあるか、というと、トールキンの書いた英語テキストそのものにはないと思います。もちろんそこからが近道ではあると思いますが、日本語や映画(?)もまた、作品の本質へ至る道の一つを示していると思います。

曲の本質は、いわば概念の世界、抽象の世界にあると思います。しかも、それは演奏によって変化していくものだと思います。私達は音と音の関係から作品の本質を直感的に把握するしかないと思います。それは頭で考えて解釈することとは全く異なります。解釈時におけるような思っている自由はありません。見い出すことしかできません。しかもその見えない本質は、演奏によりその外見を変えていくと思います。すなわち名演が名曲を作るのです。従って時代により曲の演奏スタイルが変わっているのは自然なことです。

最近、Biberのロザリオのソナタやパッサカーリアを聞いています。そしてBachの手書き譜面を見ていると、Bachの無伴奏は、さらに再発見される余地が残っているという気がします。もしかすると古楽器の演奏で既にそういうものがあるかもしれません。これは私の直感です。これが正しいか間違っているかは、普段、概念、真理、美、調和、というものとどうつきあっているか、ということと関係していると思います。(ということは、間違っている可能性が高いということかな?)

また、意味不明のことを書いてしまったかもしれません。
kirin氏[04/03/02 3:38:04]投稿、
>すなわち名演が名曲を作るのです。従って時代により曲の演奏スタイルが変わっているのは自然なこと

****玉木氏は、「現代の芸術家は退化している」との趣旨の投稿をしました。演奏も退化しているのではないでしょうか?

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Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月16日 21:16
投稿者:けいちゃん(ID:MSUHFSk)
高い芸術と認められたものには、いつも伝えられたメッセージへの「共感」があります。享受者の誰もが納得するような普遍的な形として示された芸術が、完成度が高いと言えるのだろうと思います。

演奏者は、表現者であると同時に曲や作曲家の最大の理解者で、聴衆へその共感を伝える仲介者でもあるはずです。自作自演に徹している人(昔の作曲家は皆そうでしたが)などを除いて、脇役として位置づけるべきじゃないのかな、などと私は考えています。解釈はいろいろあっても作曲家の姿を映す鏡として演奏家がある、とすればあまり自分のことにこだわる必要はないのかな、などとも思います。
けいちゃん氏[04/02/16 21:16:15]投稿、

****コミュニケーションから捉えたパフォーマンスですね。

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Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月16日 20:55
投稿者:TORU(ID:OEmQWII)
[9706]kirinさん
>自分が透明であればあるほど純粋に曲が実体化することになります

21世紀の社会に暮らしていて、
そこで教育され、情報を与えられているものとして
自分がどこまで”透明”になれるのでしょうか。
また、”純粋”に曲に出会えるでしょうか。
他の場所で議論されているように、
音程一つとっても、
社会的時代的制約があるようです。

純粋に曲に出会おうとして、
既存の演奏技術や既存の解釈を評価してゆくことが
実は大変主観的な行為のような気もします。
かといって、古楽器趣味も肌に合いません。

また、曲とはテクスト(譜面)の事でしょうか。
音楽は、どう”存在”するのでしょうか。

批判ではありません。基本的に賛意を表したい。
私も分からないなりに興味はあります。
21世紀の日本には、
21世紀の日本にしかないBACH演奏があったらいいなと思っています。
純粋とはどういうことか、もう少し書いて下さいませんか。
TORU氏[04/02/16 20:55:54]投稿、
****国家も共同幻想に過ぎないと吉本隆明は云っていますね。

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Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月16日 18:13
投稿者:ぎゅん田ー(ID:JxBwWSE)
>音楽は自己表現の手段になりがちですが、決して自分を表現するものではないと思っています。もしそうなら大変醜いものになってしまいます。

私は、まだまだ、未熟なので、音楽は(芸術一般ほとんど)自己表現そのものと思っています。自分を表現すると大変醜いものになってしまうのなら、とても寂しいし、つらいと思います。素晴しい音楽を表現する、そのために自分を媒介にする。もちろん、そうお考えになって演奏されるのは素晴しいことだと思いますが。

自己そのものを丸出ししにしたら、それは混乱のきわみでしょうから、誰でも自分を制御し、表現の仕方を考えて、形にしていくのだと思います。そして作られてきたものが芸術品であったり、音楽であったり、芝居であったり・・・。音楽というものが、人間、から少し離れて存在するもののように(神?)は感じていません。やはり、生きている時間がまだまだ少ないのかな?

私は人間の醜さを愛してやまない、変わった人間なのかもしれません。
それとも、ただの未熟者です。

皆様は、どのようにお考えですか?
ぎゅん田ー氏[04/02/16 18:13:48]投稿、

****バクーニンも同じ様な事を云っています。

何か、場違いを感じる。失礼しました。
[10773]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年03月04日 02:42
投稿者:kirin(ID:JnA2WZQ)
pochiさん>
> 演奏も退化しているのではないでしょうか?

一般的に論じるのは危険かもしれませんが、あらゆる芸術が芸術ではなくなってしまっているという現実はあるでしょうね。猿の塗りたくった絵が名画のように売買される例があったと思います。猿の絵に美的価値を認めていると考えるか、抽象画は猿の絵と似たり寄ったりと考えているか、いずれにしても首を傾げたくなります。

音量が大きい方がいい、というのはむしろ現代のホールでの問題ではないかと思います。とすると、これは芸術以外の要求になるのであまり重要ではないでしょう。大きな音よりもむしろ小さな音の方が良いということがあります。たとえば、大きな音に対しては耳は生理的に聞かない方向に調節されるのに対し、小さな音に対しては逆により繊細に耳が調節されます。特に子供の音楽教育では、大きな音には要注意です。ベルカントよりもドイツリートの方が好き、という私の好みもあるかもしれませんが。

正確に時分割したものが正しいリズムだと思っている人、結構多いですね。音の要求に従って、短いリズムと長いリズムの性格で弾くことよりも、正確な時分割で弾くことの方が正しいということは、根拠のないことだと思いますが、こういう質よりも量的なものを重要視する傾向が現代の芸術に多くの影響を与えているように思います。

いずれにしろ、物事は螺旋状に進化します。片側に大きく触れた振り子は、もう片側へ大きく触れるようになります。また、個人の問題ならば、世界の芸術が堕落してもその中で自分自身が成長すれば良いことです。
[10792]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年03月04日 20:33
投稿者:kaya(ID:IjcwgXM)
kirinさま。

サルが塗った絵(?といえるのか)は、単に珍しいからだと思います。美術業界では話題にすらなりませんでした。絵画をやっているものとして、そこに持ち出されたくはないというのが本音です。抽象画を描いていたりする人にははなはだ迷惑な話です。
極論過ぎて、一般的な芸術論の中に、掲げるにはいささか不適切ではないでしょうか?

勿論、チンパンジーが簡単な計算をしたりする例もありますが・・・これも動物愛好家の観点を機軸にすると、どうなのか?と思います。

確かに、私自身「芸術はもう、あらゆることを出し尽くしたのでは?」と感じることはあります。けれども、それで満足するもしないも自分自身だし。結局何が言いたいかっていうと、基本的にはkirinさんに賛成なんです☆

〔10083〕ぎゅん田ーさま。

人間の醜さを前面に押し出して、何かを伝えようとする。
美術業界ではそんな作家もいます。(私は音楽は趣味の美術業界人なので)

完成された美しさだけが芸術ではないのではないか…と最近思ったりします。むしろ、最近はそこに向かおうとする中に、本当の美しさとか、芸術があるのかもしれないと思いながら自分と格闘しています。
[10805]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年03月05日 04:29
投稿者:kirin(ID:JnA2WZQ)
kayaさん>
> サルが塗った絵(?といえるのか)は、単に珍しいからだと思います。

なるほど。これは極めて特殊な例だったのですね。マスコミで取り上げていましたが、その情報を鵜呑みにしてしまったようです。少し、ほっとしました。メディアリテラシーに注意ですね。最近はイラク問題を含め、マスコミの情報は全く信用していませんが。

> 完成された美しさだけが芸術ではないのではないか…

その通りだと思います。醜さを表現して芸術なのか、疑問ですよね。ただし、一見醜いということの中にも調和的な美があるという場合は別です。さらに、私は、美が人間を通して生み出されたものが芸術であると思います。鳥の声や価輪のせせらぎの音も美しいですが、だからといって音楽が不要にはなりません。また、自然の音を音楽であると言う人もいますが、それもまた違うと思います。
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