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スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2018年09月05日 01:52
投稿者:松毬(ID:MImSJXU)
スズキのNo.1000番台の高級楽器の実力はどうなのでしょうか??? 皆様のコメントをお願いいたします。
スズキの No.1200 や No.1500 等、手作りの楽器があるようですが、、、ヤマハのブラビオール、文京のピグマリウス、その他の日本、イタリア、ドイツ等の製作者の新作と、性能やお値段もざっくりと同じくらいで団子状態にあるように思えます。
スズキは政吉の自身作のバイオリンは、良い評価を得ている伝説があり、政吉から歴代の社長および職人が受け継がれて、No.1000番台に繋がっているようです。
私はスズキを経験してないのですが、もし良いなら30~100万円のスズキのほうが、実用的には200万円のイタリア新作よりも良いのでは???と感じます。
投資にもならない200万の新作買わなくても、、と思います。
どうぞ皆様の沢山の意見を頂きたいと思います。
宜しくお願いいたします。
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【ご参考】
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Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月15日 23:04
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
★彡 ザビエル後の宣教師を考えると、ヴィオリーノを見聞する機会は多分にあり、また日本に持ち込むことを考えることもできそうです!! 😊
バイオリンは、1500年ごろ生まれたとも、1520年ごろのミラノ郊外で製作されたとも言われます。 画家ガウデンツィオ・フェラーリは、ミラノの近くピエモンティの「オレンジの木の聖母」、ミラノがあるロンバルディアの「サロンノ街のマドンナ・デイ・ミラコリ教会のクーポラ」にあるとおりバイオリンを描いてます。 ミラノでは、1538年までに用語「ヴィオリーノ」は公に使われます [55377]
1537年、ザビエルを含むイエズス会の創設者7名は、パリからイタリアに行っており、ミラノを経由しただろうから、ミラノでヴィオリーノの見聞をしていたかも分かりません。
ローマ教皇パウルス3世に会いに、パリからローマ(バチカン)へ、ベネチアでの司祭への叙階を受けしばらくイタリアに留まったようですが、パリに帰るのに、ミラノを経由したでしょう。 ザビエルらとバイオリンが出会う可能性はありますが、、、
1941年、ザビエルはインドのゴアに向かいます。
☆彡 これ以降はザビエルが日本にヴィオリーノを持ち込む機会はなく、ザビエルはないでしょう😢
★彡 一方で、
1538年、ロヨラはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れており、
1540年、教皇パウルス3世は、イエズス会に正式な認可を与えます
1543年、ロヨラは会の初代総長に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣します
1556年、リヨンで出版されたジャンブ・ド・フェールの楽譜「Epitome」にヴィオロンがあり、この頃には、ヴァイオリンはすでにヨーロッパ全土に広まり始めていたようで、ストリートミュージシャンと貴族の間で急速に人気を博したようです。 この頃からイエズス会とヴィオリーノが出会う可能性は格段に高かったでしょう 😊
1555年頃、フランス宮廷はイタリアのヴァイオリニストのダンスバンドを輸入し、
1560年、フランス王シャルル9世はアンドレア・アマティに24台のヴァイオリンを製作するよう命じています
1573年、カトリーヌ・ド・メディシスの祝賀会の際、「音楽は今までに見たことのないほど美しく、バレエには約30本のヴァイオリンが伴奏し、戦闘的な旋律を心地よく奏でていた」とある観察者は書いている
https://en.wikipedia.org/wiki/Violin#History
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#Emergence
バイオリンは、1500年ごろ生まれたとも、1520年ごろのミラノ郊外で製作されたとも言われます。 画家ガウデンツィオ・フェラーリは、ミラノの近くピエモンティの「オレンジの木の聖母」、ミラノがあるロンバルディアの「サロンノ街のマドンナ・デイ・ミラコリ教会のクーポラ」にあるとおりバイオリンを描いてます。 ミラノでは、1538年までに用語「ヴィオリーノ」は公に使われます [55377]
[55377]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月13日 05:03
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
さて、宣教師らのラベカが、バイオリン(ヴァイオリン)だった可能性についてです
18才の大学生ザビエルが、フランスでモンマルトル(パリ)の誓いを立てる(1534)、少し前には、ヴィオロン(vyollon 仏)/ヴィオリーノ(violino 伊)となる楽器は既に登場!!
まず、バイオリンの起源を見てみましょう!!
バイオリンは、ヴィエレ、レベック、リラ・ダ・ブラッチョなど、15~16世紀のバイオリン以外の弦楽器から発展したと考えられます。 当初は、他の楽器を含め包括的にヴィオラダ・ブラッチョと呼ばれたでしょう。 1520年代には、既に登場していますね!!
1529~30年「オレンジの木の聖母」(ガウデンツィオ・フェラーリ(c.1471-1546))。 中央左下に、3弦のバイオリンを弾く幼児が描かれています https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#/media/File:La_Madonna_degli_aranci.jpg
1535年「サロンノ街のマドンナ・デイ・ミラコリ教会のクーポラ」。 天使たちがバイオリン、ビオラ、チェロを演奏している https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#/media/File:Gaudenzio_Ferrari_002.jpg
最も古い文献は、サヴォイアの財務省の記録「トロンペットとヴィオロン(vyollons仏)・ド・ヴェルセイル」で、「ヴェルチェッリのトランペットとバイオリン」の支払い、にあります。 ヴェルチェッリとは、フェラーリが「オレンジの木の聖母」を描いた町です。
イタリア語の「ヴィオリーノ(violino)」という用語が最初に文書に使用されたのは1538年「ヴィオリーニ・ミラネージ(ミラノのバイオリニスト)」がニースに連れてこられたときです https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#Emergence
フランスの作曲家フィリベール・ジャンブ・ド・フェール(1548-1564)の楽譜「Epitome」、理論書『音楽の要約、音、そしてそれに応じた...ヴィオラとヴィオロン』(1556)で、現在バイオリンと呼ばれる楽器が音楽史上初めて説明されています https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#
用語、バイオリンは、1570sからの英語です。 イタリア語ではヴィオリーノ、小さいヴィオラの意味です。 用語、ヴィオラは、古プロバンス語とイタリア語の(旧)ヴィオラから1797年にテナー・バイオリンに当てます。 (旧)ヴィオラは弦楽器を表すヴィトゥラからで、恐らく、喜びや生命(vita)を表す女神ヴィトゥラや歓喜で歌うと云ういみからです https://en.wikipedia.org/wiki/Violin#Etymology
18才の大学生ザビエルが、フランスでモンマルトル(パリ)の誓いを立てる(1534)、少し前には、ヴィオロン(vyollon 仏)/ヴィオリーノ(violino 伊)となる楽器は既に登場!!
まず、バイオリンの起源を見てみましょう!!
バイオリンは、ヴィエレ、レベック、リラ・ダ・ブラッチョなど、15~16世紀のバイオリン以外の弦楽器から発展したと考えられます。 当初は、他の楽器を含め包括的にヴィオラダ・ブラッチョと呼ばれたでしょう。 1520年代には、既に登場していますね!!
1529~30年「オレンジの木の聖母」(ガウデンツィオ・フェラーリ(c.1471-1546))。 中央左下に、3弦のバイオリンを弾く幼児が描かれています https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#/media/File:La_Madonna_degli_aranci.jpg
1535年「サロンノ街のマドンナ・デイ・ミラコリ教会のクーポラ」。 天使たちがバイオリン、ビオラ、チェロを演奏している https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#/media/File:Gaudenzio_Ferrari_002.jpg
最も古い文献は、サヴォイアの財務省の記録「トロンペットとヴィオロン(vyollons仏)・ド・ヴェルセイル」で、「ヴェルチェッリのトランペットとバイオリン」の支払い、にあります。 ヴェルチェッリとは、フェラーリが「オレンジの木の聖母」を描いた町です。
イタリア語の「ヴィオリーノ(violino)」という用語が最初に文書に使用されたのは1538年「ヴィオリーニ・ミラネージ(ミラノのバイオリニスト)」がニースに連れてこられたときです https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#Emergence
フランスの作曲家フィリベール・ジャンブ・ド・フェール(1548-1564)の楽譜「Epitome」、理論書『音楽の要約、音、そしてそれに応じた...ヴィオラとヴィオロン』(1556)で、現在バイオリンと呼ばれる楽器が音楽史上初めて説明されています https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#
用語、バイオリンは、1570sからの英語です。 イタリア語ではヴィオリーノ、小さいヴィオラの意味です。 用語、ヴィオラは、古プロバンス語とイタリア語の(旧)ヴィオラから1797年にテナー・バイオリンに当てます。 (旧)ヴィオラは弦楽器を表すヴィトゥラからで、恐らく、喜びや生命(vita)を表す女神ヴィトゥラや歓喜で歌うと云ういみからです https://en.wikipedia.org/wiki/Violin#Etymology
1537年、ザビエルを含むイエズス会の創設者7名は、パリからイタリアに行っており、ミラノを経由しただろうから、ミラノでヴィオリーノの見聞をしていたかも分かりません。
ローマ教皇パウルス3世に会いに、パリからローマ(バチカン)へ、ベネチアでの司祭への叙階を受けしばらくイタリアに留まったようですが、パリに帰るのに、ミラノを経由したでしょう。 ザビエルらとバイオリンが出会う可能性はありますが、、、
1941年、ザビエルはインドのゴアに向かいます。
☆彡 これ以降はザビエルが日本にヴィオリーノを持ち込む機会はなく、ザビエルはないでしょう😢
★彡 一方で、
1538年、ロヨラはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れており、
1540年、教皇パウルス3世は、イエズス会に正式な認可を与えます
1543年、ロヨラは会の初代総長に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣します
1556年、リヨンで出版されたジャンブ・ド・フェールの楽譜「Epitome」にヴィオロンがあり、この頃には、ヴァイオリンはすでにヨーロッパ全土に広まり始めていたようで、ストリートミュージシャンと貴族の間で急速に人気を博したようです。 この頃からイエズス会とヴィオリーノが出会う可能性は格段に高かったでしょう 😊
1555年頃、フランス宮廷はイタリアのヴァイオリニストのダンスバンドを輸入し、
1560年、フランス王シャルル9世はアンドレア・アマティに24台のヴァイオリンを製作するよう命じています
1573年、カトリーヌ・ド・メディシスの祝賀会の際、「音楽は今までに見たことのないほど美しく、バレエには約30本のヴァイオリンが伴奏し、戦闘的な旋律を心地よく奏でていた」とある観察者は書いている
https://en.wikipedia.org/wiki/Violin#History
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#Emergence
[55389]
キリシタンのヴィオリーノ・コードのように
投稿日時:2024年07月17日 03:07
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正:1541年、ザビエルはインドのゴアに向かいます。
追補:ダ・ビンチ・コードではなく、キリシタン・ヴィオリーノ・コードのようです
16世紀初頭、フランスとイタリアは統治が分かれますが、ヴィオリーノは直ぐフランスに伝わってヴィオロンと呼ばれたようです!!
17世紀初めには、日本はキリスト教徒は約20万人、神学校は200校にも及んでいます
[55370]
>キリシタンの子どもたちの音楽教育 西南女学院大学学術機関リポジトリ
>https://seinan-jo.repo.nii.ac.jp/record/52/files/Vol.19kanaya.pdf
★彡 多くの宣教師が来日し、イタリア人のほかフランス人もる中、少なくともヴィオリーノを見聞した者も来日したでしょう!! 😊
フランス王は、フランソワ1世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
神聖ローマ帝国と他 (ハプスブルク帝国):カール5世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Empire-Roman-Emperor-Charles-V_02.svg
1556 年の論文「音楽の要点」の著者ジャンブ・ド・フェール(仏)
これによると、フレットのないバイオリンの外観、その調律方法、そしてバイオリンが主にダンス音楽、時にはダブルボーカルパートの演奏に使用されたと述べています。 フェールは、次の一節のように、バイオリンの地位は低いとみています。
ヴィオロン(violon)はヴィオル(viole)とは全く異なります。 まず、ヴィオロンは5度に調弦された4本の弦だけです。4本の各弦に4つの音(tons)があり、ヴィオルの5本の弦と同じ数の音があります。 本体の形状はより小さく、より平らで、音ははるかに荒々しい。 フレットはありません。 フランス人とイタリア人は、楽器の演奏に関してまったく同じで、なぜ、ある楽器をヴィオルと呼び、別の楽器をヴィオロンと呼ぶのでしょうか。 私たちは、紳士、商人、その他の高貴な人々が時間を過ごす楽器をヴィオルと呼び、私は、ヴィオロンが似てると考えています。 ほとんどのヴィオロンはプロが演奏しています。
(すでにヴィオロンはヨーロッパ全土に広まり始めていたであろう)
"Historical Background of the Violin"
https://www.violinonline.com/historicalbackgroundoftheviolin.htm
一方で、この頃、日本は[55367]
[55370]
の通り、ザビエルが宣教を始め、豊後府内では子供たちが聖歌を歌い出したり、ヴィオラ・ダ・アルコの演奏を学び、演奏し始めています
イエズス会は、ザビエル(西1506-1552)に続き、恐らく30~40名以上来日したでしょう
名が分る16名は下記 ( 西:スペイン人、 葡:ポルトガル人、 伊:イタリア人 )
バルタザール・ガーゴ(葡1521-1583)、ジョアン・ヌーネス・バレト(葡1520-1571)、ガスパル・ヴィレラ(伊1525-1572)、ルイス・フロイス(葡1532-1597)、ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(伊1533-1609) 、ガスパール・コエリョ(葡1530-1590)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(伊1539-1606)、ルイス・デ・セルケイラ(葡1552-1614)、バルタサール・デ・トーレス(西1563-1626)、カルロ・スピノラ(伊1564-1622)、ジロラモ・デ・アンゼリス(伊1568-1623)、R.P.フランシスコ・パシェコ(葡1565-1626)、ジョアン・マテウス・アダミ(伊1576-1633)、ディエゴ・コスタ(葡1576-1633)、クリストヴァン・フェレイラ(葡c.1580-1650)、ジュゼッペ・キアラ(伊1602-1685)
他にフランシスコ会、ドミニコ会、聖アウグスチノ修道会などが来日し、恐らくイエズス会同様で、恐らく合わせて60~80名以上もいたでしょう!!
追補:ダ・ビンチ・コードではなく、キリシタン・ヴィオリーノ・コードのようです
16世紀初頭、フランスとイタリアは統治が分かれますが、ヴィオリーノは直ぐフランスに伝わってヴィオロンと呼ばれたようです!!
17世紀初めには、日本はキリスト教徒は約20万人、神学校は200校にも及んでいます
[55370]
[55370]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月10日 18:04
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
[55367]
訂正:
1534年、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学生6名ザビエルらが、サン・ドニ教会地下室に集まり清貧、貞潔、従順の誓い(モンマルトルの誓い)を立てます。
1540年、教皇パウロ3世の承認を得て、イエズス会が設立。 名の由来は「主の友」より
イエズスの紋章 https://en.wikipedia.org/wiki/Jesuits#/media/File:Ihs-logo.svg/2
[55367]
追補:
ザビエルら、山口でのミサの後、多くの宣教師が渡来し豊後府内、長崎、島原、熊本にもキリスト教と西洋の知見、珍重品、音楽を伝えます。 宣教師らの楽器は、クラヴォの他 ヴィオラ※1、チャルメラ、ラヘイカ(チェロの一種※2)など。 聖歌の伴奏にクラヴォやヴィオラが使われます。 イエズス会で最も言及される楽器、ヴィオラは日本でも製作します!! ☆彡 初の日本製西洋弦楽器!! だが現存なし。
オルガンは1600年頃マカオで造りますが、日本の天草でも竹パイプのオルガンを造ります
https://oratio.jp/p_column/take-paipuorugan
権力者は、主に武器を中心とした南蛮貿易による現世的利益追求が絡みから、特に織田信長は、キリスト教への関心と宣教師へ優遇は格別で、キリシタンと親しく交流します。 西洋音楽を好み、度々セミナリオを訪れてはヴィオラやクラヴォの演奏を聴きます
神学校で音楽教育をはじめ、布教を拡大します
少年を対象としたセミナリオ(Seminario)設立
1580年、肥前有馬、仏寺を改造。 上流家庭の子どもら22名。 有馬晴信(鎮貴)の協力
1581年、都、安土、三階建の修道院を建て上階にセミナリオ。 織田信長の協力
毎日一時間、器楽か声楽の勉強が義務。 余暇も合唱や器楽の練習で、才能ある子は助手として教えます。 教会で、盛大に子どもたちが演奏します
新たな入信者を対象するノビシャド(Noviciado)設立:
1580年、豊後臼杵
宣教師の養成機関、コレジョ(Collegio)設立
1580年、豊後府内に
1590年、長崎坂口の館(たち)に
1601年、宣教師ルイス・セルケイラ(1552-1614)にるコレジョが
キリシタンの子どもたちの音楽教育 西南女学院大学学術機関リポジトリ、より
https://seinan-jo.repo.nii.ac.jp/record/52/files/Vol.19kanaya.pdf
※1:[55367]
[55368]のヴィオラ・ダ・アルコのこと
※2: 不詳。ヴィオラ・ダ・アルコ と ラベイカとの混乱でしょ。 ラベイカ(Ribeca伊)は、ラヴェキーニャ(Rabequinhaポルトガル語)、ラベカ(Rabecaポルトガル語)、ラベル(Rabelスペイン語)、レベック(Rebec)とも呼ばれ、各々レベックの流れの楽器で、バイオリンのようなもの。 ヴィオラ・ダ・アルコを、ヴィオラ・ダ・ガンバの前身とみて、必ずしもチェロのようではないが、チェロように思い、更にラベイカと取り違えたのではないか?
因みに、ヴェキーニャ https://youtu.be/fP2E92XnyzA
https://en.wikipedia.org/wiki/Rabel_(instrument)#/media/File:Rabelista.jpg
[55367]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月09日 17:36
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正:大友義鎮(よししげ:宗麟(そうりん))
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
〉☞https://www.suzukimethod.or.jp/monthly/_src/40595/171112.pdf
欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
〉☞https://www.suzukimethod.or.jp/monthly/_src/40595/171112.pdf
欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
1534年、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学生6名ザビエルらが、サン・ドニ教会地下室に集まり清貧、貞潔、従順の誓い(モンマルトルの誓い)を立てます。
1540年、教皇パウロ3世の承認を得て、イエズス会が設立。 名の由来は「主の友」より
イエズスの紋章 https://en.wikipedia.org/wiki/Jesuits#/media/File:Ihs-logo.svg/2
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[55367]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月09日 17:36
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正:大友義鎮(よししげ:宗麟(そうりん))
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
〉☞https://www.suzukimethod.or.jp/monthly/_src/40595/171112.pdf
欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
〉☞https://www.suzukimethod.or.jp/monthly/_src/40595/171112.pdf
欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
ザビエルら、山口でのミサの後、多くの宣教師が渡来し豊後府内、長崎、島原、熊本にもキリスト教と西洋の知見、珍重品、音楽を伝えます。 宣教師らの楽器は、クラヴォの他 ヴィオラ※1、チャルメラ、ラヘイカ(チェロの一種※2)など。 聖歌の伴奏にクラヴォやヴィオラが使われます。 イエズス会で最も言及される楽器、ヴィオラは日本でも製作します!! ☆彡 初の日本製西洋弦楽器!! だが現存なし。
オルガンは1600年頃マカオで造りますが、日本の天草でも竹パイプのオルガンを造ります
https://oratio.jp/p_column/take-paipuorugan
権力者は、主に武器を中心とした南蛮貿易による現世的利益追求が絡みから、特に織田信長は、キリスト教への関心と宣教師へ優遇は格別で、キリシタンと親しく交流します。 西洋音楽を好み、度々セミナリオを訪れてはヴィオラやクラヴォの演奏を聴きます
神学校で音楽教育をはじめ、布教を拡大します
少年を対象としたセミナリオ(Seminario)設立
1580年、肥前有馬、仏寺を改造。 上流家庭の子どもら22名。 有馬晴信(鎮貴)の協力
1581年、都、安土、三階建の修道院を建て上階にセミナリオ。 織田信長の協力
毎日一時間、器楽か声楽の勉強が義務。 余暇も合唱や器楽の練習で、才能ある子は助手として教えます。 教会で、盛大に子どもたちが演奏します
新たな入信者を対象するノビシャド(Noviciado)設立:
1580年、豊後臼杵
宣教師の養成機関、コレジョ(Collegio)設立
1580年、豊後府内に
1590年、長崎坂口の館(たち)に
1601年、宣教師ルイス・セルケイラ(1552-1614)にるコレジョが
キリシタンの子どもたちの音楽教育 西南女学院大学学術機関リポジトリ、より
https://seinan-jo.repo.nii.ac.jp/record/52/files/Vol.19kanaya.pdf
※1:[55367]
[55367]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月09日 17:36
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正:大友義鎮(よししげ:宗麟(そうりん))
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
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欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
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欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
※2: 不詳。ヴィオラ・ダ・アルコ と ラベイカとの混乱でしょ。 ラベイカ(Ribeca伊)は、ラヴェキーニャ(Rabequinhaポルトガル語)、ラベカ(Rabecaポルトガル語)、ラベル(Rabelスペイン語)、レベック(Rebec)とも呼ばれ、各々レベックの流れの楽器で、バイオリンのようなもの。 ヴィオラ・ダ・アルコを、ヴィオラ・ダ・ガンバの前身とみて、必ずしもチェロのようではないが、チェロように思い、更にラベイカと取り違えたのではないか?
因みに、ヴェキーニャ https://youtu.be/fP2E92XnyzA
https://en.wikipedia.org/wiki/Rabel_(instrument)#/media/File:Rabelista.jpg
>https://seinan-jo.repo.nii.ac.jp/record/52/files/Vol.19kanaya.pdf
★彡 多くの宣教師が来日し、イタリア人のほかフランス人もる中、少なくともヴィオリーノを見聞した者も来日したでしょう!! 😊
フランス王は、フランソワ1世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
神聖ローマ帝国と他 (ハプスブルク帝国):カール5世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Empire-Roman-Emperor-Charles-V_02.svg
1556 年の論文「音楽の要点」の著者ジャンブ・ド・フェール(仏)
これによると、フレットのないバイオリンの外観、その調律方法、そしてバイオリンが主にダンス音楽、時にはダブルボーカルパートの演奏に使用されたと述べています。 フェールは、次の一節のように、バイオリンの地位は低いとみています。
ヴィオロン(violon)はヴィオル(viole)とは全く異なります。 まず、ヴィオロンは5度に調弦された4本の弦だけです。4本の各弦に4つの音(tons)があり、ヴィオルの5本の弦と同じ数の音があります。 本体の形状はより小さく、より平らで、音ははるかに荒々しい。 フレットはありません。 フランス人とイタリア人は、楽器の演奏に関してまったく同じで、なぜ、ある楽器をヴィオルと呼び、別の楽器をヴィオロンと呼ぶのでしょうか。 私たちは、紳士、商人、その他の高貴な人々が時間を過ごす楽器をヴィオルと呼び、私は、ヴィオロンが似てると考えています。 ほとんどのヴィオロンはプロが演奏しています。
(すでにヴィオロンはヨーロッパ全土に広まり始めていたであろう)
"Historical Background of the Violin"
https://www.violinonline.com/historicalbackgroundoftheviolin.htm
一方で、この頃、日本は[55367]
[55367]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月09日 17:36
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正:大友義鎮(よししげ:宗麟(そうりん))
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
〉☞https://www.suzukimethod.or.jp/monthly/_src/40595/171112.pdf
欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
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欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
[55370]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月10日 18:04
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
[55367]
訂正:
1534年、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学生6名ザビエルらが、サン・ドニ教会地下室に集まり清貧、貞潔、従順の誓い(モンマルトルの誓い)を立てます。
1540年、教皇パウロ3世の承認を得て、イエズス会が設立。 名の由来は「主の友」より
イエズスの紋章 https://en.wikipedia.org/wiki/Jesuits#/media/File:Ihs-logo.svg/2
[55367]
追補:
ザビエルら、山口でのミサの後、多くの宣教師が渡来し豊後府内、長崎、島原、熊本にもキリスト教と西洋の知見、珍重品、音楽を伝えます。 宣教師らの楽器は、クラヴォの他 ヴィオラ※1、チャルメラ、ラヘイカ(チェロの一種※2)など。 聖歌の伴奏にクラヴォやヴィオラが使われます。 イエズス会で最も言及される楽器、ヴィオラは日本でも製作します!! ☆彡 初の日本製西洋弦楽器!! だが現存なし。
オルガンは1600年頃マカオで造りますが、日本の天草でも竹パイプのオルガンを造ります
https://oratio.jp/p_column/take-paipuorugan
権力者は、主に武器を中心とした南蛮貿易による現世的利益追求が絡みから、特に織田信長は、キリスト教への関心と宣教師へ優遇は格別で、キリシタンと親しく交流します。 西洋音楽を好み、度々セミナリオを訪れてはヴィオラやクラヴォの演奏を聴きます
神学校で音楽教育をはじめ、布教を拡大します
少年を対象としたセミナリオ(Seminario)設立
1580年、肥前有馬、仏寺を改造。 上流家庭の子どもら22名。 有馬晴信(鎮貴)の協力
1581年、都、安土、三階建の修道院を建て上階にセミナリオ。 織田信長の協力
毎日一時間、器楽か声楽の勉強が義務。 余暇も合唱や器楽の練習で、才能ある子は助手として教えます。 教会で、盛大に子どもたちが演奏します
新たな入信者を対象するノビシャド(Noviciado)設立:
1580年、豊後臼杵
宣教師の養成機関、コレジョ(Collegio)設立
1580年、豊後府内に
1590年、長崎坂口の館(たち)に
1601年、宣教師ルイス・セルケイラ(1552-1614)にるコレジョが
キリシタンの子どもたちの音楽教育 西南女学院大学学術機関リポジトリ、より
https://seinan-jo.repo.nii.ac.jp/record/52/files/Vol.19kanaya.pdf
※1:[55367]
[55368]のヴィオラ・ダ・アルコのこと
※2: 不詳。ヴィオラ・ダ・アルコ と ラベイカとの混乱でしょ。 ラベイカ(Ribeca伊)は、ラヴェキーニャ(Rabequinhaポルトガル語)、ラベカ(Rabecaポルトガル語)、ラベル(Rabelスペイン語)、レベック(Rebec)とも呼ばれ、各々レベックの流れの楽器で、バイオリンのようなもの。 ヴィオラ・ダ・アルコを、ヴィオラ・ダ・ガンバの前身とみて、必ずしもチェロのようではないが、チェロように思い、更にラベイカと取り違えたのではないか?
因みに、ヴェキーニャ https://youtu.be/fP2E92XnyzA
https://en.wikipedia.org/wiki/Rabel_(instrument)#/media/File:Rabelista.jpg
[55367]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月09日 17:36
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正:大友義鎮(よししげ:宗麟(そうりん))
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
〉☞https://www.suzukimethod.or.jp/monthly/_src/40595/171112.pdf
欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
〉☞https://www.suzukimethod.or.jp/monthly/_src/40595/171112.pdf
欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
1534年、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学生6名ザビエルらが、サン・ドニ教会地下室に集まり清貧、貞潔、従順の誓い(モンマルトルの誓い)を立てます。
1540年、教皇パウロ3世の承認を得て、イエズス会が設立。 名の由来は「主の友」より
イエズスの紋章 https://en.wikipedia.org/wiki/Jesuits#/media/File:Ihs-logo.svg/2
[55367]
[55367]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月09日 17:36
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正:大友義鎮(よししげ:宗麟(そうりん))
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
〉☞https://www.suzukimethod.or.jp/monthly/_src/40595/171112.pdf
欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
〉☞https://www.suzukimethod.or.jp/monthly/_src/40595/171112.pdf
欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
ザビエルら、山口でのミサの後、多くの宣教師が渡来し豊後府内、長崎、島原、熊本にもキリスト教と西洋の知見、珍重品、音楽を伝えます。 宣教師らの楽器は、クラヴォの他 ヴィオラ※1、チャルメラ、ラヘイカ(チェロの一種※2)など。 聖歌の伴奏にクラヴォやヴィオラが使われます。 イエズス会で最も言及される楽器、ヴィオラは日本でも製作します!! ☆彡 初の日本製西洋弦楽器!! だが現存なし。
オルガンは1600年頃マカオで造りますが、日本の天草でも竹パイプのオルガンを造ります
https://oratio.jp/p_column/take-paipuorugan
権力者は、主に武器を中心とした南蛮貿易による現世的利益追求が絡みから、特に織田信長は、キリスト教への関心と宣教師へ優遇は格別で、キリシタンと親しく交流します。 西洋音楽を好み、度々セミナリオを訪れてはヴィオラやクラヴォの演奏を聴きます
神学校で音楽教育をはじめ、布教を拡大します
少年を対象としたセミナリオ(Seminario)設立
1580年、肥前有馬、仏寺を改造。 上流家庭の子どもら22名。 有馬晴信(鎮貴)の協力
1581年、都、安土、三階建の修道院を建て上階にセミナリオ。 織田信長の協力
毎日一時間、器楽か声楽の勉強が義務。 余暇も合唱や器楽の練習で、才能ある子は助手として教えます。 教会で、盛大に子どもたちが演奏します
新たな入信者を対象するノビシャド(Noviciado)設立:
1580年、豊後臼杵
宣教師の養成機関、コレジョ(Collegio)設立
1580年、豊後府内に
1590年、長崎坂口の館(たち)に
1601年、宣教師ルイス・セルケイラ(1552-1614)にるコレジョが
キリシタンの子どもたちの音楽教育 西南女学院大学学術機関リポジトリ、より
https://seinan-jo.repo.nii.ac.jp/record/52/files/Vol.19kanaya.pdf
※1:[55367]
[55367]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月09日 17:36
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正:大友義鎮(よししげ:宗麟(そうりん))
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
〉☞https://www.suzukimethod.or.jp/monthly/_src/40595/171112.pdf
欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
さて、次の中で、小見出し「 2.ヴァイオリンの渡来 」に、宣教師ルイス・フロイス(1532-来日1563-1597)の『日本史』によると「ヴァイオリンらしき楽器が伝えられて、修道士らがミサでの演奏用に日本の子供たちに(ヴァイオリンを)教えた と 言 わ れ て い る」とあります。 そして鎖国云々とあり政吉に至ります。 古い方、戦国期から見て行きます
[55127] 〉鈴木政吉が住んだ町~幻となったヴァイオリンの里
〉☞https://www.suzukimethod.or.jp/monthly/_src/40595/171112.pdf
欧州では、ハプスブルク家のカール大公(1500-1558)は、スペイン王カルロス1世(在位1516-1556)及び、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)として即位し、カトリック教会の擁護者となります。 スペインは、ハプスブルク朝カルロス1世と子のフェリペ2世(在位1556-1598)により最盛期を迎え「太陽の没することなき帝国」スペイン黄金世紀と呼ばれます。 貿易で貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。 スペイン・ポルトガル同君連合(1580–1640)をへて、植民地主義が始まります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
1534年、ロヨラの他フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier,1506-1552)等は、フランスのモンマルトルの聖堂で、司祭修道会の一つイエズス会が創立されます。
ザビエル司祭は、インドのゴアに派遣され、インド総督使節として布教活動を始めます
1543年、ポルトガル商人たちが鉄砲とともに種子島に漂着します。 日本で西洋貿易が始まり、様々な西洋文明が流入しキリスト教もそうです。 ローマ・カトリック教会の礼拝に不可欠の教会音楽は、人々に大きな感銘を与え、たちまち九州を中心に広がったそうです
1547年に、サビエルは、鹿児島からマラッカ(マレーシア)にきた日本人、アンジロ(ヤジロウとも)に出会い、アンジロは、自分の犯した罪を贖うため、洗礼を受けます。 1549年、アンジロと鹿児島に上陸します。 ☆彡 アンジロが、初めて西洋音楽を体験した日本人のようだが、音楽を聴いた記述が見当たりません????
ザビエルは、1550年:肥前国平戸、1551年:周防国山口、および豊後国府内でも宣教します。 周防、守護大名の大内義隆(1507-1551)に、楽器(クラヴォ:鍵盤楽器・クラヴィコード)を贈ります。 これは日本初の洋楽演奏の記録で、西洋音楽は山口からとされます!!
豊後府内では、宣教師と守護大名の大友宗麟(1530-1587)らの熱心な信仰で入信者が多い。
府内の教会では、1555年、日本の子どもたちにより聖歌が歌われ、1557年に、聖歌隊は二部に分かれて聖歌を歌った記録が残っている
1561年、子どもたちに読み書きのほか音楽が教えられ、1562年に、宗麟を招いて西洋音楽を披露している。 子どもたちのヴィオラ・ダ・アルコ(ヴィオラ※)の演奏は「基督教国の王侯の前にても奏し得べきものなりき」と称賛され、ヨーロッパの王侯の前で披露しても恥ずかしくないほどの腕前と記録がある。 大分市に、日本人初の西洋音楽を演奏した「西洋音楽発祥」の地として、宣教師がヴィオラを弾き、日本の子どもたちが歌を歌っている記念碑があります!! 西洋音楽発祥記念碑 https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3341
※ヴィオラ・ダ・ブラッチョか?
※2: 不詳。ヴィオラ・ダ・アルコ と ラベイカとの混乱でしょ。 ラベイカ(Ribeca伊)は、ラヴェキーニャ(Rabequinhaポルトガル語)、ラベカ(Rabecaポルトガル語)、ラベル(Rabelスペイン語)、レベック(Rebec)とも呼ばれ、各々レベックの流れの楽器で、バイオリンのようなもの。 ヴィオラ・ダ・アルコを、ヴィオラ・ダ・ガンバの前身とみて、必ずしもチェロのようではないが、チェロように思い、更にラベイカと取り違えたのではないか?
因みに、ヴェキーニャ https://youtu.be/fP2E92XnyzA
https://en.wikipedia.org/wiki/Rabel_(instrument)#/media/File:Rabelista.jpg
イエズス会は、ザビエル(西1506-1552)に続き、恐らく30~40名以上来日したでしょう
名が分る16名は下記 ( 西:スペイン人、 葡:ポルトガル人、 伊:イタリア人 )
バルタザール・ガーゴ(葡1521-1583)、ジョアン・ヌーネス・バレト(葡1520-1571)、ガスパル・ヴィレラ(伊1525-1572)、ルイス・フロイス(葡1532-1597)、ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(伊1533-1609) 、ガスパール・コエリョ(葡1530-1590)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(伊1539-1606)、ルイス・デ・セルケイラ(葡1552-1614)、バルタサール・デ・トーレス(西1563-1626)、カルロ・スピノラ(伊1564-1622)、ジロラモ・デ・アンゼリス(伊1568-1623)、R.P.フランシスコ・パシェコ(葡1565-1626)、ジョアン・マテウス・アダミ(伊1576-1633)、ディエゴ・コスタ(葡1576-1633)、クリストヴァン・フェレイラ(葡c.1580-1650)、ジュゼッペ・キアラ(伊1602-1685)
他にフランシスコ会、ドミニコ会、聖アウグスチノ修道会などが来日し、恐らくイエズス会同様で、恐らく合わせて60~80名以上もいたでしょう!!
[55397]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月19日 23:07
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正: ★彡 多くの宣教師が来日し、イタリア人のほかフランス人もいる中、少なくともヴィオリーノを見聞した者も来日したでしょう!! 😊
補足: 16世紀初頭、フランスでのヴィオロンの歴史は、イエズス会の歴史(1534~)と同じ頃に始まります。 ヴィオリーノがミラノ公国生まれならではのことでしょう
イタリア戦争の舞台になったミラノ公国は、15世紀末から半フランス、半イタリアのような流動的な情勢でした。 フランス Vs ローマ教皇側の神聖同盟(ヴェネツィア共和国、神聖ローマ帝国、スペイン、イングランド)の争いは、16世紀初頭、ミラノ公国は神聖ローマ帝国スペイン領となり決着します
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
ゴアを経由してスペインからローマへ渡る天正遣欧少年使節団(1582(天正10)-1590(天18))を掘り下げます。 1590年ごろのヴィオリーノ見聞や体験を取りこぼしていたかも!!😲
それは、次回に 🙇
参考:1614年頃までに約100名以上もの欧州人が来日したと見られ、欧州でのヴィオリーノの見聞経験があったでしょう!
*「1614年、家康の宣教師追放令後もマシャドは滞日した89人の宣教師のうち38人の潜伏宣教師の一人として日本に残った」とある
《[55389]
、追加の宣教師ら外国人リスト》
イエズス会、11名追加:コスメ・デ・トーレス(西1510-1570)、ペドロ・マルティンス(葡.不詳-1598)、ルイス・デ・アルメイダ(葡1525?-1583)、フランシスコ・カブラル(西1529-1609)、ペドロ・ゴメス(西1535-1600)、ペドロ・ラモン(西1550-1611)、グレゴリオ・デ・セスペデス(西1551-1611)、ディオゴ・デ・メスキータ(葡1553-1614)、フランチェスコ・パシオ(伊1554?-1612)、ベント・フェルナンデス(葡1579-1633)、ジョアン・バウチスタ・マシャド(葡1580-1617)
フランシスコ会17名:ペトロ・バウチスタ・ブラスケス(西1546-1597)、ゴンザロ・ガルシア(葡1557-1597)、ジェロニモ・デ・ジェズス・デ・カストロ(葡.不詳-1601)、アウグスティン・ロドリゲス(西.不詳-1613)、アロンソ・ムニョス(西.不詳-1620)、ルイス・ソテロ(西1574-1624)、ペドロ・デ・ブルギーリョス(西.生没不詳)、フランシスコ・ガルベス(西c.1575-1623)、ディエゴ・デ・サン・フランシスコ(西c.1575-不詳)、アポリナリオ・フランコ(生没不詳)、ディエゴ・デ・ラ・クルス・デ・パロマレス(生没不詳)、ペドロ・バウチスタ・ポレス・イ・タマヨ(生没不詳)、イグナシオ・デ・ヘスス(生没不詳)、ペドロ・デ・ラ・アスンシオン(西.不詳-1617)、ディエゴ・デ・サンタ・カタリナ(西.不詳-1636)、フランシスコ・デ・バラハス(西.不詳-1640)、ベルナルド・デ・サン・ホセ・オゾリオ(西.不詳-1640)
ドミニコ会10名:フランシスコ・デ・モラレス(西1567-1622)、アルフォンソ・デ・ナバルテ・ベニト(西1571-1617)、エルナンド・デ・サン・ホセ・アヤラ(西1575-1617)、トマス・デ・スマラガ(1577-1622)、ハシント・オルファネル(西1578-1622)、アロンソ・デ・メーニャ(西1578-1622)、ルイス・フロレス(西.不詳-1622)、ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ(西.不詳-1624?)、ドミンゴ・イバニェス・デ・エルキシア(西1589-1633)、ディエゴ・コリャード(西1589?-1641)
聖アウグスチノ修道会3名:ペドロ・デ・スニガ(西1580-1622)、フランシスコ・デ・ヘスース(西1590-1632)、ジャチント・ジョルダーノ・アンサローネ(伊1598-1634)
貿易商10名:蘭&英,ウィリアム・アダムス(三浦按針,英1564-1620)、英,ジョン・セーリス(英c.1580-1643)、蘭,ヤコブ・クワッケルナック(蘭.不詳-1606)、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(耶楊子(八重洲),蘭1556?-1623)、メルヒオール・ファン・サントフォールト(蘭c.1570-1641)、ピーテル・フェルフーフ(不詳)、アブラハム・ファン・デン・ブルーク(不詳)、ニコラス・ポイク(不詳)、ヤックス・スペックス(蘭1585-1652)、セヘルスゾーン(不詳)
その他2名:ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ(西1564-1636)、セバスティアン・ビスカイノ(西1548-1624)
商館長(カピタン:葡,西,英,蘭) 多数:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%B3
補足: 16世紀初頭、フランスでのヴィオロンの歴史は、イエズス会の歴史(1534~)と同じ頃に始まります。 ヴィオリーノがミラノ公国生まれならではのことでしょう
イタリア戦争の舞台になったミラノ公国は、15世紀末から半フランス、半イタリアのような流動的な情勢でした。 フランス Vs ローマ教皇側の神聖同盟(ヴェネツィア共和国、神聖ローマ帝国、スペイン、イングランド)の争いは、16世紀初頭、ミラノ公国は神聖ローマ帝国スペイン領となり決着します
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
ゴアを経由してスペインからローマへ渡る天正遣欧少年使節団(1582(天正10)-1590(天18))を掘り下げます。 1590年ごろのヴィオリーノ見聞や体験を取りこぼしていたかも!!😲
それは、次回に 🙇
参考:1614年頃までに約100名以上もの欧州人が来日したと見られ、欧州でのヴィオリーノの見聞経験があったでしょう!
*「1614年、家康の宣教師追放令後もマシャドは滞日した89人の宣教師のうち38人の潜伏宣教師の一人として日本に残った」とある
《[55389]
[55389]
キリシタンのヴィオリーノ・コードのように
投稿日時:2024年07月17日 03:07
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正:1541年、ザビエルはインドのゴアに向かいます。
追補:ダ・ビンチ・コードではなく、キリシタン・ヴィオリーノ・コードのようです
16世紀初頭、フランスとイタリアは統治が分かれますが、ヴィオリーノは直ぐフランスに伝わってヴィオロンと呼ばれたようです!!
17世紀初めには、日本はキリスト教徒は約20万人、神学校は200校にも及んでいます
[55370] >キリシタンの子どもたちの音楽教育 西南女学院大学学術機関リポジトリ
>https://seinan-jo.repo.nii.ac.jp/record/52/files/Vol.19kanaya.pdf
★彡 多くの宣教師が来日し、イタリア人のほかフランス人もる中、少なくともヴィオリーノを見聞した者も来日したでしょう!! 😊
フランス王は、フランソワ1世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
神聖ローマ帝国と他 (ハプスブルク帝国):カール5世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Empire-Roman-Emperor-Charles-V_02.svg
1556 年の論文「音楽の要点」の著者ジャンブ・ド・フェール(仏)
これによると、フレットのないバイオリンの外観、その調律方法、そしてバイオリンが主にダンス音楽、時にはダブルボーカルパートの演奏に使用されたと述べています。 フェールは、次の一節のように、バイオリンの地位は低いとみています。
ヴィオロン(violon)はヴィオル(viole)とは全く異なります。 まず、ヴィオロンは5度に調弦された4本の弦だけです。4本の各弦に4つの音(tons)があり、ヴィオルの5本の弦と同じ数の音があります。 本体の形状はより小さく、より平らで、音ははるかに荒々しい。 フレットはありません。 フランス人とイタリア人は、楽器の演奏に関してまったく同じで、なぜ、ある楽器をヴィオルと呼び、別の楽器をヴィオロンと呼ぶのでしょうか。 私たちは、紳士、商人、その他の高貴な人々が時間を過ごす楽器をヴィオルと呼び、私は、ヴィオロンが似てると考えています。 ほとんどのヴィオロンはプロが演奏しています。
(すでにヴィオロンはヨーロッパ全土に広まり始めていたであろう)
"Historical Background of the Violin"
https://www.violinonline.com/historicalbackgroundoftheviolin.htm
一方で、この頃、日本は[55367][55370] の通り、ザビエルが宣教を始め、豊後府内では子供たちが聖歌を歌い出したり、ヴィオラ・ダ・アルコの演奏を学び、演奏し始めています
イエズス会は、ザビエル(西1506-1552)に続き、恐らく30~40名以上来日したでしょう
名が分る16名は下記 ( 西:スペイン人、 葡:ポルトガル人、 伊:イタリア人 )
バルタザール・ガーゴ(葡1521-1583)、ジョアン・ヌーネス・バレト(葡1520-1571)、ガスパル・ヴィレラ(伊1525-1572)、ルイス・フロイス(葡1532-1597)、ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(伊1533-1609) 、ガスパール・コエリョ(葡1530-1590)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(伊1539-1606)、ルイス・デ・セルケイラ(葡1552-1614)、バルタサール・デ・トーレス(西1563-1626)、カルロ・スピノラ(伊1564-1622)、ジロラモ・デ・アンゼリス(伊1568-1623)、R.P.フランシスコ・パシェコ(葡1565-1626)、ジョアン・マテウス・アダミ(伊1576-1633)、ディエゴ・コスタ(葡1576-1633)、クリストヴァン・フェレイラ(葡c.1580-1650)、ジュゼッペ・キアラ(伊1602-1685)
他にフランシスコ会、ドミニコ会、聖アウグスチノ修道会などが来日し、恐らくイエズス会同様で、恐らく合わせて60~80名以上もいたでしょう!!
追補:ダ・ビンチ・コードではなく、キリシタン・ヴィオリーノ・コードのようです
16世紀初頭、フランスとイタリアは統治が分かれますが、ヴィオリーノは直ぐフランスに伝わってヴィオロンと呼ばれたようです!!
17世紀初めには、日本はキリスト教徒は約20万人、神学校は200校にも及んでいます
[55370] >キリシタンの子どもたちの音楽教育 西南女学院大学学術機関リポジトリ
>https://seinan-jo.repo.nii.ac.jp/record/52/files/Vol.19kanaya.pdf
★彡 多くの宣教師が来日し、イタリア人のほかフランス人もる中、少なくともヴィオリーノを見聞した者も来日したでしょう!! 😊
フランス王は、フランソワ1世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
神聖ローマ帝国と他 (ハプスブルク帝国):カール5世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Empire-Roman-Emperor-Charles-V_02.svg
1556 年の論文「音楽の要点」の著者ジャンブ・ド・フェール(仏)
これによると、フレットのないバイオリンの外観、その調律方法、そしてバイオリンが主にダンス音楽、時にはダブルボーカルパートの演奏に使用されたと述べています。 フェールは、次の一節のように、バイオリンの地位は低いとみています。
ヴィオロン(violon)はヴィオル(viole)とは全く異なります。 まず、ヴィオロンは5度に調弦された4本の弦だけです。4本の各弦に4つの音(tons)があり、ヴィオルの5本の弦と同じ数の音があります。 本体の形状はより小さく、より平らで、音ははるかに荒々しい。 フレットはありません。 フランス人とイタリア人は、楽器の演奏に関してまったく同じで、なぜ、ある楽器をヴィオルと呼び、別の楽器をヴィオロンと呼ぶのでしょうか。 私たちは、紳士、商人、その他の高貴な人々が時間を過ごす楽器をヴィオルと呼び、私は、ヴィオロンが似てると考えています。 ほとんどのヴィオロンはプロが演奏しています。
(すでにヴィオロンはヨーロッパ全土に広まり始めていたであろう)
"Historical Background of the Violin"
https://www.violinonline.com/historicalbackgroundoftheviolin.htm
一方で、この頃、日本は[55367][55370] の通り、ザビエルが宣教を始め、豊後府内では子供たちが聖歌を歌い出したり、ヴィオラ・ダ・アルコの演奏を学び、演奏し始めています
イエズス会は、ザビエル(西1506-1552)に続き、恐らく30~40名以上来日したでしょう
名が分る16名は下記 ( 西:スペイン人、 葡:ポルトガル人、 伊:イタリア人 )
バルタザール・ガーゴ(葡1521-1583)、ジョアン・ヌーネス・バレト(葡1520-1571)、ガスパル・ヴィレラ(伊1525-1572)、ルイス・フロイス(葡1532-1597)、ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(伊1533-1609) 、ガスパール・コエリョ(葡1530-1590)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(伊1539-1606)、ルイス・デ・セルケイラ(葡1552-1614)、バルタサール・デ・トーレス(西1563-1626)、カルロ・スピノラ(伊1564-1622)、ジロラモ・デ・アンゼリス(伊1568-1623)、R.P.フランシスコ・パシェコ(葡1565-1626)、ジョアン・マテウス・アダミ(伊1576-1633)、ディエゴ・コスタ(葡1576-1633)、クリストヴァン・フェレイラ(葡c.1580-1650)、ジュゼッペ・キアラ(伊1602-1685)
他にフランシスコ会、ドミニコ会、聖アウグスチノ修道会などが来日し、恐らくイエズス会同様で、恐らく合わせて60~80名以上もいたでしょう!!
イエズス会、11名追加:コスメ・デ・トーレス(西1510-1570)、ペドロ・マルティンス(葡.不詳-1598)、ルイス・デ・アルメイダ(葡1525?-1583)、フランシスコ・カブラル(西1529-1609)、ペドロ・ゴメス(西1535-1600)、ペドロ・ラモン(西1550-1611)、グレゴリオ・デ・セスペデス(西1551-1611)、ディオゴ・デ・メスキータ(葡1553-1614)、フランチェスコ・パシオ(伊1554?-1612)、ベント・フェルナンデス(葡1579-1633)、ジョアン・バウチスタ・マシャド(葡1580-1617)
フランシスコ会17名:ペトロ・バウチスタ・ブラスケス(西1546-1597)、ゴンザロ・ガルシア(葡1557-1597)、ジェロニモ・デ・ジェズス・デ・カストロ(葡.不詳-1601)、アウグスティン・ロドリゲス(西.不詳-1613)、アロンソ・ムニョス(西.不詳-1620)、ルイス・ソテロ(西1574-1624)、ペドロ・デ・ブルギーリョス(西.生没不詳)、フランシスコ・ガルベス(西c.1575-1623)、ディエゴ・デ・サン・フランシスコ(西c.1575-不詳)、アポリナリオ・フランコ(生没不詳)、ディエゴ・デ・ラ・クルス・デ・パロマレス(生没不詳)、ペドロ・バウチスタ・ポレス・イ・タマヨ(生没不詳)、イグナシオ・デ・ヘスス(生没不詳)、ペドロ・デ・ラ・アスンシオン(西.不詳-1617)、ディエゴ・デ・サンタ・カタリナ(西.不詳-1636)、フランシスコ・デ・バラハス(西.不詳-1640)、ベルナルド・デ・サン・ホセ・オゾリオ(西.不詳-1640)
ドミニコ会10名:フランシスコ・デ・モラレス(西1567-1622)、アルフォンソ・デ・ナバルテ・ベニト(西1571-1617)、エルナンド・デ・サン・ホセ・アヤラ(西1575-1617)、トマス・デ・スマラガ(1577-1622)、ハシント・オルファネル(西1578-1622)、アロンソ・デ・メーニャ(西1578-1622)、ルイス・フロレス(西.不詳-1622)、ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ(西.不詳-1624?)、ドミンゴ・イバニェス・デ・エルキシア(西1589-1633)、ディエゴ・コリャード(西1589?-1641)
聖アウグスチノ修道会3名:ペドロ・デ・スニガ(西1580-1622)、フランシスコ・デ・ヘスース(西1590-1632)、ジャチント・ジョルダーノ・アンサローネ(伊1598-1634)
貿易商10名:蘭&英,ウィリアム・アダムス(三浦按針,英1564-1620)、英,ジョン・セーリス(英c.1580-1643)、蘭,ヤコブ・クワッケルナック(蘭.不詳-1606)、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(耶楊子(八重洲),蘭1556?-1623)、メルヒオール・ファン・サントフォールト(蘭c.1570-1641)、ピーテル・フェルフーフ(不詳)、アブラハム・ファン・デン・ブルーク(不詳)、ニコラス・ポイク(不詳)、ヤックス・スペックス(蘭1585-1652)、セヘルスゾーン(不詳)
その他2名:ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ(西1564-1636)、セバスティアン・ビスカイノ(西1548-1624)
商館長(カピタン:葡,西,英,蘭) 多数:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%B3
[55425]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月26日 04:55
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
再訂正:★彡 イエズス会はイタリアやスペインほかフランスにも広がる中、多くの宣教師が来日し、少なくともヴィオリーノを見聞した者も来日したでしょう!! 😊
追補足:イエズス会は、最初の7名により、パリのモンマルトルの誓いを立て、本部はローマです。7名は、イグナチオ・デ・ロヨラ(西)、ピーター・ファーヴル(仏サヴォワ)、フランシスコ・ザビエル(西)、シモン・ロドリゲス(葡)、ディエゴ・ライネス(西)、アルフォンソ・サルメロン(西)、ニコラス・ポバディリャ(西) により、全世界へ布教します
さて、
遣欧少年使節(1582(天正10)-1590(天18))は、日本人初のイタリアク/レモナ訪問者!! 無名ですが、軍楽音楽も初めて体験し、及び、バイオリンも(ほぼ確実※)見聞します!!
天正遣欧少年使節順路 : (クレモナ、ミラノを経由)
http://murasakishikibu2014.blog.fc2.com/img/201604140650294dc.jpg/
※ 舞踏会や各種の音楽体験をしているためだが、立証へは最新の研究が待たれます
(最近の「日本のヴァイオリン史(2022) 梶野絵奈」でも研究していない)
追補足:イエズス会は、最初の7名により、パリのモンマルトルの誓いを立て、本部はローマです。7名は、イグナチオ・デ・ロヨラ(西)、ピーター・ファーヴル(仏サヴォワ)、フランシスコ・ザビエル(西)、シモン・ロドリゲス(葡)、ディエゴ・ライネス(西)、アルフォンソ・サルメロン(西)、ニコラス・ポバディリャ(西) により、全世界へ布教します
さて、
遣欧少年使節(1582(天正10)-1590(天18))は、日本人初のイタリアク/レモナ訪問者!! 無名ですが、軍楽音楽も初めて体験し、及び、バイオリンも(ほぼ確実※)見聞します!!
天正遣欧少年使節順路 : (クレモナ、ミラノを経由)
http://murasakishikibu2014.blog.fc2.com/img/201604140650294dc.jpg/
※ 舞踏会や各種の音楽体験をしているためだが、立証へは最新の研究が待たれます
(最近の「日本のヴァイオリン史(2022) 梶野絵奈」でも研究していない)
[55426]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月26日 04:57
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正:
遣欧少年使節(1582(天正10)-1590(天18))は、日本人初のイタリア/クレモナ訪問者!!
遣欧少年使節(1582(天正10)-1590(天18))は、日本人初のイタリア/クレモナ訪問者!!
[55427]
遣欧少年使節の概要
投稿日時:2024年07月26日 18:05
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
ローマ教皇らに謁見し、日本宣教へ支援を求めること、及び、欧州のキリスト教世界を見聞・体験し、栄光と偉大さを、日本で少年らに語らせ布教に役立てる思いがあります
各地で、少年使節は前代未聞の大歓迎を受けます!! 欧州滞在613日(イタリア192日)
《 使節 》
主席正使:伊東マンショ(1569?-1612) 大友宗麟名代。司祭に叙階。日向国主伊東義祐の孫
正使:千々石ミゲル(1569?-1633) 大村純忠名代。純忠の甥 有馬晴信の従兄弟(後棄教)
副使:中浦ジュリアン(c.1568-1633) 司祭に叙階。 肥前国中浦城主小佐々純吉の子
副使:原マルチノ(c.1569-1629) 司祭に叙階
《 随員 》日本人
使節の教育係 :ジョルジェ・ロヨラ修道士
印刷技術習得要員:コンスタンチノ・ドラード 少年
同 :アグスチーノ 少年
外国人
ゴアまで:アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 / ゴアから:ヌーノ・ロドリゲス神父
通訳 :ディオゴ・デ・メスキータ神父
その他 :ロレンソ・メシア神父、オリヴィエーロ修道士
《欧州旅程》
1584.8.10 ポルトガル、首都リスボン着 アルベルト・アウストリア枢機卿(フェリペ2世の妹マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の子)の王宮に招かれる
1585.3. 1 イタリア、リヴォルノに到着、トスカーナ大公国に入る
同 .3. 2 ピサ宮殿、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見
晩に、大公妃ビアンカ・カッペッロ主催の舞踏会に参加
同 .3.23 ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。 ローマ市民権をえる
同 .5. 1 新ローマ教皇シクストゥス5世の戴冠式に出席
同 .8. 8 イタリア、ジェノバを発つ
1586.4.13 ポルトガル、リスボンを出発(帰路)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E5%B0%91%E5%B9%B4%E4%BD%BF%E7%AF%80#%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%B9%B4%E8%AD%9C
上の他、伊東マンショは、使節がトスカーナ大公国の舞踏会に招かれた時、大公妃と踊ったという記録がある( ? らしい) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7#%E6%8C%BF%E8%A9%B1
★彡 この頃、欧州にヴィオリーノが広がり[55388]
[55389]
続ける最中でしょう。 イタリアの製作家[55378]
[55380]
は、ブレシア、クレモナ、ヴェネツィアに広がり、ヴィオリーノは、既に人気の新型楽器と分ります。 使節は、時代差はあれ幕末遣外使節[55133]
~[55279]
と同様以上の待遇を受けており、ヴィオリーノも見聞・体験する機会があったハズです!! 舞踏会にも用いられていたのではないでしょうか??
詳細別途
各地で、少年使節は前代未聞の大歓迎を受けます!! 欧州滞在613日(イタリア192日)
《 使節 》
主席正使:伊東マンショ(1569?-1612) 大友宗麟名代。司祭に叙階。日向国主伊東義祐の孫
正使:千々石ミゲル(1569?-1633) 大村純忠名代。純忠の甥 有馬晴信の従兄弟(後棄教)
副使:中浦ジュリアン(c.1568-1633) 司祭に叙階。 肥前国中浦城主小佐々純吉の子
副使:原マルチノ(c.1569-1629) 司祭に叙階
《 随員 》日本人
使節の教育係 :ジョルジェ・ロヨラ修道士
印刷技術習得要員:コンスタンチノ・ドラード 少年
同 :アグスチーノ 少年
外国人
ゴアまで:アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 / ゴアから:ヌーノ・ロドリゲス神父
通訳 :ディオゴ・デ・メスキータ神父
その他 :ロレンソ・メシア神父、オリヴィエーロ修道士
《欧州旅程》
1584.8.10 ポルトガル、首都リスボン着 アルベルト・アウストリア枢機卿(フェリペ2世の妹マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の子)の王宮に招かれる
1585.3. 1 イタリア、リヴォルノに到着、トスカーナ大公国に入る
同 .3. 2 ピサ宮殿、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見
晩に、大公妃ビアンカ・カッペッロ主催の舞踏会に参加
同 .3.23 ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。 ローマ市民権をえる
同 .5. 1 新ローマ教皇シクストゥス5世の戴冠式に出席
同 .8. 8 イタリア、ジェノバを発つ
1586.4.13 ポルトガル、リスボンを出発(帰路)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E5%B0%91%E5%B9%B4%E4%BD%BF%E7%AF%80#%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%B9%B4%E8%AD%9C
上の他、伊東マンショは、使節がトスカーナ大公国の舞踏会に招かれた時、大公妃と踊ったという記録がある( ? らしい) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7#%E6%8C%BF%E8%A9%B1
★彡 この頃、欧州にヴィオリーノが広がり[55388]
[55388]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月15日 23:04
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
★彡 ザビエル後の宣教師を考えると、ヴィオリーノを見聞する機会は多分にあり、また日本に持ち込むことを考えることもできそうです!! 😊
バイオリンは、1500年ごろ生まれたとも、1520年ごろのミラノ郊外で製作されたとも言われます。 画家ガウデンツィオ・フェラーリは、ミラノの近くピエモンティの「オレンジの木の聖母」、ミラノがあるロンバルディアの「サロンノ街のマドンナ・デイ・ミラコリ教会のクーポラ」にあるとおりバイオリンを描いてます。 ミラノでは、1538年までに用語「ヴィオリーノ」は公に使われます [55377]
1537年、ザビエルを含むイエズス会の創設者7名は、パリからイタリアに行っており、ミラノを経由しただろうから、ミラノでヴィオリーノの見聞をしていたかも分かりません。
ローマ教皇パウルス3世に会いに、パリからローマ(バチカン)へ、ベネチアでの司祭への叙階を受けしばらくイタリアに留まったようですが、パリに帰るのに、ミラノを経由したでしょう。 ザビエルらとバイオリンが出会う可能性はありますが、、、
1941年、ザビエルはインドのゴアに向かいます。
☆彡 これ以降はザビエルが日本にヴィオリーノを持ち込む機会はなく、ザビエルはないでしょう😢
★彡 一方で、
1538年、ロヨラはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れており、
1540年、教皇パウルス3世は、イエズス会に正式な認可を与えます
1543年、ロヨラは会の初代総長に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣します
1556年、リヨンで出版されたジャンブ・ド・フェールの楽譜「Epitome」にヴィオロンがあり、この頃には、ヴァイオリンはすでにヨーロッパ全土に広まり始めていたようで、ストリートミュージシャンと貴族の間で急速に人気を博したようです。 この頃からイエズス会とヴィオリーノが出会う可能性は格段に高かったでしょう 😊
1555年頃、フランス宮廷はイタリアのヴァイオリニストのダンスバンドを輸入し、
1560年、フランス王シャルル9世はアンドレア・アマティに24台のヴァイオリンを製作するよう命じています
1573年、カトリーヌ・ド・メディシスの祝賀会の際、「音楽は今までに見たことのないほど美しく、バレエには約30本のヴァイオリンが伴奏し、戦闘的な旋律を心地よく奏でていた」とある観察者は書いている
https://en.wikipedia.org/wiki/Violin#History
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#Emergence
バイオリンは、1500年ごろ生まれたとも、1520年ごろのミラノ郊外で製作されたとも言われます。 画家ガウデンツィオ・フェラーリは、ミラノの近くピエモンティの「オレンジの木の聖母」、ミラノがあるロンバルディアの「サロンノ街のマドンナ・デイ・ミラコリ教会のクーポラ」にあるとおりバイオリンを描いてます。 ミラノでは、1538年までに用語「ヴィオリーノ」は公に使われます [55377]
1537年、ザビエルを含むイエズス会の創設者7名は、パリからイタリアに行っており、ミラノを経由しただろうから、ミラノでヴィオリーノの見聞をしていたかも分かりません。
ローマ教皇パウルス3世に会いに、パリからローマ(バチカン)へ、ベネチアでの司祭への叙階を受けしばらくイタリアに留まったようですが、パリに帰るのに、ミラノを経由したでしょう。 ザビエルらとバイオリンが出会う可能性はありますが、、、
1941年、ザビエルはインドのゴアに向かいます。
☆彡 これ以降はザビエルが日本にヴィオリーノを持ち込む機会はなく、ザビエルはないでしょう😢
★彡 一方で、
1538年、ロヨラはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れており、
1540年、教皇パウルス3世は、イエズス会に正式な認可を与えます
1543年、ロヨラは会の初代総長に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣します
1556年、リヨンで出版されたジャンブ・ド・フェールの楽譜「Epitome」にヴィオロンがあり、この頃には、ヴァイオリンはすでにヨーロッパ全土に広まり始めていたようで、ストリートミュージシャンと貴族の間で急速に人気を博したようです。 この頃からイエズス会とヴィオリーノが出会う可能性は格段に高かったでしょう 😊
1555年頃、フランス宮廷はイタリアのヴァイオリニストのダンスバンドを輸入し、
1560年、フランス王シャルル9世はアンドレア・アマティに24台のヴァイオリンを製作するよう命じています
1573年、カトリーヌ・ド・メディシスの祝賀会の際、「音楽は今までに見たことのないほど美しく、バレエには約30本のヴァイオリンが伴奏し、戦闘的な旋律を心地よく奏でていた」とある観察者は書いている
https://en.wikipedia.org/wiki/Violin#History
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#Emergence
[55389]
キリシタンのヴィオリーノ・コードのように
投稿日時:2024年07月17日 03:07
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
訂正:1541年、ザビエルはインドのゴアに向かいます。
追補:ダ・ビンチ・コードではなく、キリシタン・ヴィオリーノ・コードのようです
16世紀初頭、フランスとイタリアは統治が分かれますが、ヴィオリーノは直ぐフランスに伝わってヴィオロンと呼ばれたようです!!
17世紀初めには、日本はキリスト教徒は約20万人、神学校は200校にも及んでいます
[55370] >キリシタンの子どもたちの音楽教育 西南女学院大学学術機関リポジトリ
>https://seinan-jo.repo.nii.ac.jp/record/52/files/Vol.19kanaya.pdf
★彡 多くの宣教師が来日し、イタリア人のほかフランス人もる中、少なくともヴィオリーノを見聞した者も来日したでしょう!! 😊
フランス王は、フランソワ1世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
神聖ローマ帝国と他 (ハプスブルク帝国):カール5世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Empire-Roman-Emperor-Charles-V_02.svg
1556 年の論文「音楽の要点」の著者ジャンブ・ド・フェール(仏)
これによると、フレットのないバイオリンの外観、その調律方法、そしてバイオリンが主にダンス音楽、時にはダブルボーカルパートの演奏に使用されたと述べています。 フェールは、次の一節のように、バイオリンの地位は低いとみています。
ヴィオロン(violon)はヴィオル(viole)とは全く異なります。 まず、ヴィオロンは5度に調弦された4本の弦だけです。4本の各弦に4つの音(tons)があり、ヴィオルの5本の弦と同じ数の音があります。 本体の形状はより小さく、より平らで、音ははるかに荒々しい。 フレットはありません。 フランス人とイタリア人は、楽器の演奏に関してまったく同じで、なぜ、ある楽器をヴィオルと呼び、別の楽器をヴィオロンと呼ぶのでしょうか。 私たちは、紳士、商人、その他の高貴な人々が時間を過ごす楽器をヴィオルと呼び、私は、ヴィオロンが似てると考えています。 ほとんどのヴィオロンはプロが演奏しています。
(すでにヴィオロンはヨーロッパ全土に広まり始めていたであろう)
"Historical Background of the Violin"
https://www.violinonline.com/historicalbackgroundoftheviolin.htm
一方で、この頃、日本は[55367][55370] の通り、ザビエルが宣教を始め、豊後府内では子供たちが聖歌を歌い出したり、ヴィオラ・ダ・アルコの演奏を学び、演奏し始めています
イエズス会は、ザビエル(西1506-1552)に続き、恐らく30~40名以上来日したでしょう
名が分る16名は下記 ( 西:スペイン人、 葡:ポルトガル人、 伊:イタリア人 )
バルタザール・ガーゴ(葡1521-1583)、ジョアン・ヌーネス・バレト(葡1520-1571)、ガスパル・ヴィレラ(伊1525-1572)、ルイス・フロイス(葡1532-1597)、ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(伊1533-1609) 、ガスパール・コエリョ(葡1530-1590)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(伊1539-1606)、ルイス・デ・セルケイラ(葡1552-1614)、バルタサール・デ・トーレス(西1563-1626)、カルロ・スピノラ(伊1564-1622)、ジロラモ・デ・アンゼリス(伊1568-1623)、R.P.フランシスコ・パシェコ(葡1565-1626)、ジョアン・マテウス・アダミ(伊1576-1633)、ディエゴ・コスタ(葡1576-1633)、クリストヴァン・フェレイラ(葡c.1580-1650)、ジュゼッペ・キアラ(伊1602-1685)
他にフランシスコ会、ドミニコ会、聖アウグスチノ修道会などが来日し、恐らくイエズス会同様で、恐らく合わせて60~80名以上もいたでしょう!!
追補:ダ・ビンチ・コードではなく、キリシタン・ヴィオリーノ・コードのようです
16世紀初頭、フランスとイタリアは統治が分かれますが、ヴィオリーノは直ぐフランスに伝わってヴィオロンと呼ばれたようです!!
17世紀初めには、日本はキリスト教徒は約20万人、神学校は200校にも及んでいます
[55370] >キリシタンの子どもたちの音楽教育 西南女学院大学学術機関リポジトリ
>https://seinan-jo.repo.nii.ac.jp/record/52/files/Vol.19kanaya.pdf
★彡 多くの宣教師が来日し、イタリア人のほかフランス人もる中、少なくともヴィオリーノを見聞した者も来日したでしょう!! 😊
フランス王は、フランソワ1世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
神聖ローマ帝国と他 (ハプスブルク帝国):カール5世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Empire-Roman-Emperor-Charles-V_02.svg
1556 年の論文「音楽の要点」の著者ジャンブ・ド・フェール(仏)
これによると、フレットのないバイオリンの外観、その調律方法、そしてバイオリンが主にダンス音楽、時にはダブルボーカルパートの演奏に使用されたと述べています。 フェールは、次の一節のように、バイオリンの地位は低いとみています。
ヴィオロン(violon)はヴィオル(viole)とは全く異なります。 まず、ヴィオロンは5度に調弦された4本の弦だけです。4本の各弦に4つの音(tons)があり、ヴィオルの5本の弦と同じ数の音があります。 本体の形状はより小さく、より平らで、音ははるかに荒々しい。 フレットはありません。 フランス人とイタリア人は、楽器の演奏に関してまったく同じで、なぜ、ある楽器をヴィオルと呼び、別の楽器をヴィオロンと呼ぶのでしょうか。 私たちは、紳士、商人、その他の高貴な人々が時間を過ごす楽器をヴィオルと呼び、私は、ヴィオロンが似てると考えています。 ほとんどのヴィオロンはプロが演奏しています。
(すでにヴィオロンはヨーロッパ全土に広まり始めていたであろう)
"Historical Background of the Violin"
https://www.violinonline.com/historicalbackgroundoftheviolin.htm
一方で、この頃、日本は[55367][55370] の通り、ザビエルが宣教を始め、豊後府内では子供たちが聖歌を歌い出したり、ヴィオラ・ダ・アルコの演奏を学び、演奏し始めています
イエズス会は、ザビエル(西1506-1552)に続き、恐らく30~40名以上来日したでしょう
名が分る16名は下記 ( 西:スペイン人、 葡:ポルトガル人、 伊:イタリア人 )
バルタザール・ガーゴ(葡1521-1583)、ジョアン・ヌーネス・バレト(葡1520-1571)、ガスパル・ヴィレラ(伊1525-1572)、ルイス・フロイス(葡1532-1597)、ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(伊1533-1609) 、ガスパール・コエリョ(葡1530-1590)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(伊1539-1606)、ルイス・デ・セルケイラ(葡1552-1614)、バルタサール・デ・トーレス(西1563-1626)、カルロ・スピノラ(伊1564-1622)、ジロラモ・デ・アンゼリス(伊1568-1623)、R.P.フランシスコ・パシェコ(葡1565-1626)、ジョアン・マテウス・アダミ(伊1576-1633)、ディエゴ・コスタ(葡1576-1633)、クリストヴァン・フェレイラ(葡c.1580-1650)、ジュゼッペ・キアラ(伊1602-1685)
他にフランシスコ会、ドミニコ会、聖アウグスチノ修道会などが来日し、恐らくイエズス会同様で、恐らく合わせて60~80名以上もいたでしょう!!
[55378]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月13日 10:51
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
アマティ以前の製作家など新常識?!
初めてバイオリンを製作した作家については、15世紀末~16世紀初期を含む製作家が、造ったと考えられますね!! ☟☟
《ブレシア派》
コルナ家:ジョヴァン・ジャコモ・ダッラ・コルナ(c.1485-c.1560)
https://en.wikipedia.org/wiki/Violin#History
ミケーリ家:ザネット(1490-1560)、ペレグリーノ(1520-1607)、ジョヴァンニ(1562-1616) 、フランチェスコ(1579-1615) 、義理の兄弟バッティスタ・ドネダ (1529?-1610)
ベルトロッティ家:フランチェスコ(1513-1563)と、アゴスティーノ(1510-1584)、 ガスパロ(1540-1609)は、ガスパロ・ダ・サロと呼ばれ、ヴァイオリンとコントラバスの演奏者および製作者の一族。
《クレモナ派》
アマティ家:アンドレア(1500?-1577)、アントニオ(1540–1607)と、ヒエロニムス1世(1561–1630)、ニコロ(1596–1684)、ヒエロニムス2世(1649–1740)
イタリアの製作家:https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#Early_makers
初めてバイオリンを製作した作家については、15世紀末~16世紀初期を含む製作家が、造ったと考えられますね!! ☟☟
《ブレシア派》
コルナ家:ジョヴァン・ジャコモ・ダッラ・コルナ(c.1485-c.1560)
https://en.wikipedia.org/wiki/Violin#History
ミケーリ家:ザネット(1490-1560)、ペレグリーノ(1520-1607)、ジョヴァンニ(1562-1616) 、フランチェスコ(1579-1615) 、義理の兄弟バッティスタ・ドネダ (1529?-1610)
ベルトロッティ家:フランチェスコ(1513-1563)と、アゴスティーノ(1510-1584)、 ガスパロ(1540-1609)は、ガスパロ・ダ・サロと呼ばれ、ヴァイオリンとコントラバスの演奏者および製作者の一族。
《クレモナ派》
アマティ家:アンドレア(1500?-1577)、アントニオ(1540–1607)と、ヒエロニムス1世(1561–1630)、ニコロ(1596–1684)、ヒエロニムス2世(1649–1740)
イタリアの製作家:https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_violin#Early_makers
[55380]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月13日 17:33
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
追加
《ヴェネツィア派》
リナローロ家:1505~1640年 https://en.wikipedia.org/wiki/Violin#History
《ヴェネツィア派》
リナローロ家:1505~1640年 https://en.wikipedia.org/wiki/Violin#History
[55133]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年06月03日 06:12
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
てぇ、てぇ、ドンッ! インシデント!!大変申し訳ございません。重要な史実を一つ見過ごしていました。
舶来品を遡ると、イギリス人のアレキサンダー・クラークが1871(明4)年に洋楽器各種を本国より持参して横浜で販売を始めたとあり、1872(明5)年、長原、春田の両者によってバイオリンと同じネックをもった明清楽器「提琴」(月琴のことか?)を発表とあります(この楽器は芸大蔵)。バイオリンも上陸していた訳です。西方教会信徒の原胤昭は、キリスト教書店を1874(明7)年 5月に十字屋を創業し、横浜居留地の外国人払い下げオルガンを入手したことをきっかけに、教会音楽を通じ楽器楽譜類および音響関係全般を取り扱いました。
史上初めてバイオリンを弾いた日本人は、1880年の松永定次郎[55060] としても、前史ではもっと早く長原、春田らに遡ると思われます。
史上初めてバイオリンの音を聴いた日本人は、国内では先の1871年のことでしょうが、前史では横浜や長崎の外国人居留地、西方教会の信者らか? 函館からのロシア正教(東方教会)の信者だったか?[55059]でしょう。音楽取調掛(現.芸大)の校長となる伊澤修二は、原胤昭を洗礼した宣教師に英語を習い(1869(明2))、留学してルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ(1875(明5))ことから、早くにバイオリンを知っています。
海外では他にも、政府の岩倉具視使節団(1871(明4))、パリ万博(1867(慶応3))に派遣された薩摩藩家老の岩下方平らの他に幕府の訪欧使節団の親善大使徳川昭武(民部大輔)ら及び随行の渋沢栄一ら、第2回遣欧使節池田使節団(1864(文久3))、福沢諭吉もいた文久遣欧使節(1862(文久元))のパリ滞在とロンドン万博、勝海舟ら咸臨丸が随行した万延元年遣米使節(1860(万延元))、遭難した津太夫ら(1803(享和3))と正教徒の善六、辰蔵、八三郎と民之助ら『環海異聞』(1806(文化3))、同じく遭難した大黒屋光太夫ら(1791(寛政3))と同じく正教徒の新蔵と庄蔵ら『北槎聞略』(1794(寛政6))に遡って、これら一団は国賓待遇を受けてバイオリンも見聞したであろうと考えられる。このパリ万博ではJ.B.ビヨームも出品しています。
明清楽器(東京音大蔵)
https://tcm-minken.jp/course_intro/gekkin.html
十字屋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E5%BA%A7%E5%8D%81%E5%AD%97%E5%B1%8B_(%E6%A5%BD%E5%99%A8%E5%BA%97)
https://www.ginzajujiya.com/company/
万延元年遣米使節(1860(万延元))の様子が分ります
https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/history.html
https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/photo.html
この使節団のために作曲された「トミー・ポルカ」は、高原守 ニューヨーク・シンフォニック・アンサンブル音楽監督及び常任指揮とアンサンブルにより蘇っています。
https://youtu.be/XbFBDCmJNCE
https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/tommy.html
舶来品を遡ると、イギリス人のアレキサンダー・クラークが1871(明4)年に洋楽器各種を本国より持参して横浜で販売を始めたとあり、1872(明5)年、長原、春田の両者によってバイオリンと同じネックをもった明清楽器「提琴」(月琴のことか?)を発表とあります(この楽器は芸大蔵)。バイオリンも上陸していた訳です。西方教会信徒の原胤昭は、キリスト教書店を1874(明7)年 5月に十字屋を創業し、横浜居留地の外国人払い下げオルガンを入手したことをきっかけに、教会音楽を通じ楽器楽譜類および音響関係全般を取り扱いました。
史上初めてバイオリンを弾いた日本人は、1880年の松永定次郎[55060] としても、前史ではもっと早く長原、春田らに遡ると思われます。
史上初めてバイオリンの音を聴いた日本人は、国内では先の1871年のことでしょうが、前史では横浜や長崎の外国人居留地、西方教会の信者らか? 函館からのロシア正教(東方教会)の信者だったか?[55059]でしょう。音楽取調掛(現.芸大)の校長となる伊澤修二は、原胤昭を洗礼した宣教師に英語を習い(1869(明2))、留学してルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ(1875(明5))ことから、早くにバイオリンを知っています。
海外では他にも、政府の岩倉具視使節団(1871(明4))、パリ万博(1867(慶応3))に派遣された薩摩藩家老の岩下方平らの他に幕府の訪欧使節団の親善大使徳川昭武(民部大輔)ら及び随行の渋沢栄一ら、第2回遣欧使節池田使節団(1864(文久3))、福沢諭吉もいた文久遣欧使節(1862(文久元))のパリ滞在とロンドン万博、勝海舟ら咸臨丸が随行した万延元年遣米使節(1860(万延元))、遭難した津太夫ら(1803(享和3))と正教徒の善六、辰蔵、八三郎と民之助ら『環海異聞』(1806(文化3))、同じく遭難した大黒屋光太夫ら(1791(寛政3))と同じく正教徒の新蔵と庄蔵ら『北槎聞略』(1794(寛政6))に遡って、これら一団は国賓待遇を受けてバイオリンも見聞したであろうと考えられる。このパリ万博ではJ.B.ビヨームも出品しています。
明清楽器(東京音大蔵)
https://tcm-minken.jp/course_intro/gekkin.html
十字屋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E5%BA%A7%E5%8D%81%E5%AD%97%E5%B1%8B_(%E6%A5%BD%E5%99%A8%E5%BA%97)
https://www.ginzajujiya.com/company/
万延元年遣米使節(1860(万延元))の様子が分ります
https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/history.html
https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/photo.html
この使節団のために作曲された「トミー・ポルカ」は、高原守 ニューヨーク・シンフォニック・アンサンブル音楽監督及び常任指揮とアンサンブルにより蘇っています。
https://youtu.be/XbFBDCmJNCE
https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/tommy.html
[55279]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年07月01日 14:54
投稿者:松毬(ID:VpKIRzA)
なお、ロンドン万博の弦楽器、沢山あったあぁ。 主要な製作者については、後でもう少し紹介します。 また、[55264] の訂正:”万延元年遣米使節(1860)”です
さて、万延元年遣米使節(1860)は、ポーハタン号に乗った77人のサムライの話です。残念ながら咸臨丸一行の勝海舟や福澤諭吉らは含まれませんが、諭吉はサンフランシスコでウェブスター英英中辞典を購入したので、初めて Violin などの言葉を使ったかもしれません
万延元年遣米使節の足跡 https://1860kenbei-shisetsu.org/history/map/
万延元年遣米使節団員名簿 https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/
[55133] 初の遣米使節団 米国の盛大な歓迎、があります
https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/history.html
サンフランシスコ、ボルティモア、ニューヨーク各市は歓迎委員を任命し、歓迎費を計上して、日本使節の歓迎につとめています。 この過程で、饗宴、晩餐会、舞踏会とあり、この時流れた音楽とともにバイオリンを見聞していると考えられます。 この史実を、バイオリン見聞の歴史に加えて、またまた日本初の更新となります
1860年、77人のサムライは、
.4. 2 安政7年3月12日 使節、サンフランシスコ市主催歓迎宴に臨席
.5.19 万延元年閏3月29日 使節一行、ホワイトハウスに於ける大統領主催歓迎会に列席
.5.25 使節幹部を招いた大統領主催の晩餐会がホワイトハウスで開催
.6.25 万延元年5月7日 ニューヨーク市主催日本使節大舞踏会。 7500人の参加者があり、切符はプレミアム付で取引される程の前景気
万延元年遣米使節年表 https://1860kenbei-shisetsu.org/history/credit/chronology/
I 章 使節一行の派遣 https://1860kenbei-shisetsu.org/history/credit/section-01/
既に、この時代に、これらの遣外使節団らは、現在の様に冒頭のよい楽器らで本格的な西洋音楽を体験していた訳です。 しかも、これ以前からで、まだこの前があります
漂流民か?いやもっと重要なハッキリとしたバイオリン見聞の記録がポーハタン号に刻まれていました。次回、もう少し掘り下げて紹介します!!
さて、万延元年遣米使節(1860)は、ポーハタン号に乗った77人のサムライの話です。残念ながら咸臨丸一行の勝海舟や福澤諭吉らは含まれませんが、諭吉はサンフランシスコでウェブスター英英中辞典を購入したので、初めて Violin などの言葉を使ったかもしれません
万延元年遣米使節の足跡 https://1860kenbei-shisetsu.org/history/map/
万延元年遣米使節団員名簿 https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/
[55133] 初の遣米使節団 米国の盛大な歓迎、があります
https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/history.html
サンフランシスコ、ボルティモア、ニューヨーク各市は歓迎委員を任命し、歓迎費を計上して、日本使節の歓迎につとめています。 この過程で、饗宴、晩餐会、舞踏会とあり、この時流れた音楽とともにバイオリンを見聞していると考えられます。 この史実を、バイオリン見聞の歴史に加えて、またまた日本初の更新となります
1860年、77人のサムライは、
.4. 2 安政7年3月12日 使節、サンフランシスコ市主催歓迎宴に臨席
.5.19 万延元年閏3月29日 使節一行、ホワイトハウスに於ける大統領主催歓迎会に列席
.5.25 使節幹部を招いた大統領主催の晩餐会がホワイトハウスで開催
.6.25 万延元年5月7日 ニューヨーク市主催日本使節大舞踏会。 7500人の参加者があり、切符はプレミアム付で取引される程の前景気
万延元年遣米使節年表 https://1860kenbei-shisetsu.org/history/credit/chronology/
I 章 使節一行の派遣 https://1860kenbei-shisetsu.org/history/credit/section-01/
既に、この時代に、これらの遣外使節団らは、現在の様に冒頭のよい楽器らで本格的な西洋音楽を体験していた訳です。 しかも、これ以前からで、まだこの前があります
漂流民か?いやもっと重要なハッキリとしたバイオリン見聞の記録がポーハタン号に刻まれていました。次回、もう少し掘り下げて紹介します!!
詳細別途
[55479]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年09月25日 10:19
投稿者:匿名希望(ID:EkBXgJg)
以前もコメントさせて頂いた匿名希望です。
現在、ひょんなことからNo.1800(当時はEVIDENCE、ある時期以降はHERITAGE)を追加購入しました。
前から所有しているNo.2000(EVIDENCE)に遜色のない音がします。もちろん音色の質は違います。
私の周りにもなかなかこのクラスの鈴木バイオリンを所有している方がおられず、リペアの方もNo.1800やNo.2000をメンテナンスするのは初めてとおっしゃっています。
もしお近くなら試奏して頂くぐらいは構わないんですけどね…このスレッドでLINE IDやメールアドレスをご案内するのもかなりリスキーなので、何か良い方法があれば良いんですが…
現在、ひょんなことからNo.1800(当時はEVIDENCE、ある時期以降はHERITAGE)を追加購入しました。
前から所有しているNo.2000(EVIDENCE)に遜色のない音がします。もちろん音色の質は違います。
私の周りにもなかなかこのクラスの鈴木バイオリンを所有している方がおられず、リペアの方もNo.1800やNo.2000をメンテナンスするのは初めてとおっしゃっています。
もしお近くなら試奏して頂くぐらいは構わないんですけどね…このスレッドでLINE IDやメールアドレスをご案内するのもかなりリスキーなので、何か良い方法があれば良いんですが…
[55499]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2024年11月05日 20:59
投稿者:松毬(ID:GBhpcEU)
匿名希望 様 コメありがとうございます。前回コメは[54601]
こちらですね
久しくお休みを頂いていましたが、復帰いたしまた。
No.1800、No.2000 と実際に触れて弾く機会があるなら、大変ありがたく幸せに思います。
個人的な情報公開に繋がるのは問題ですから、簡単に話は進まないこと仕方がありません。
これからも匿名希望様の方で、愛用されて動態保存され続ければ良いと存じます。所在が半ば明らかですので、いつか試奏が実現することもあるかも知れません。
例えば、いかにかにかスズキ(バイオリン)は?と、所有者レジストリーやスズキクラブが出来ると良いかにと思います。 いつか、クラシックカーや旧車の様に、コレクターズピースを持ち寄って試奏できるイベントができなとも限りません。
愛知県芸大には、戦前の政吉後期、イタリア高級シリーズがあり、私は、これに続く戦前の梅雄初期、戦後の士郎中期と秩前期の楽器を所有し、この板にも投稿頂いたおさむ氏は、秩後期に育てられた職人が造った秩作とされる楽器を所有されます。
他に、戦後の梅雄中期から後期、秩後期の楽器を所有する方などが加わり補完されると、匿名希望様所有の楽器まできれいに繋がります。
この様な楽器が何台も現れると鈴木のフラッグシップの流れが実在として見え、楽器製作の真の実力的な側面が明らかにないると思います。 EVIDENCEの裏付けが見えるようで大変興味が湧く所ですね。
いつ日か試奏が出来ることをお待ちしたいと存じます。
なお、私は、鈴木の中級楽器も多く所有(戦前の特に戦後の特と[55496]
)したので、上記同様に他の方々の参加があれば、19世紀末から今までの楽器が、実在の全貌を現すことも夢ではないと思っております。
[54601]
Re: スズキの高級バイオリン 1000番台について教えて下さい。
投稿日時:2022年08月30日 23:19
投稿者:匿名希望(ID:gVMmlQ)
他社製品との比較が出来ませんが、過去にNo.520、No.580、No.1100(エターナル)、No.1300(エターナル)、そして現在はNo.2000(エビデンス)を所有しています。
品番3桁バイオリンは値段の割にはそれなりに良い音がします。
エターナルシリーズはバイオリン自体がよく共鳴してくれます。もちろんNo.1100よりもNo.1300の方が音の深みがあります。
そしてNo.2000のエビデンスですが、バイオリン自体がしっかりと響いてくれるのはもちろん、その周りの空間も共鳴してくれるので、弾いていて本当に気持ちが良い楽器です。
エターナルと比較すると、低音(G線)のハイポジションがよりしっかりと鳴る印象があります。
今まで様々な楽器を試奏して来ましたが、値段で勝負するなら、同価格帯の海外製のバイオリンよりも鈴木バイオリンの方がよく鳴る気がします。
もちろん個体差や好みはありますが、海外製の200万円前後のバイオリンと比べると、エターナルも引けを取らない気がします。(特にNo.1300)
また、海外製の500~700万円前後のバイオリンとエビデンスを比べると、大抵のバイオリンよりもエビデンスの方がしっかりと鳴る印象を受けました。
600万円と700万円のバイオリンの中でも、エビデンスよりもさらに深みのある音が出るバイオリンももちろんありました。
個人の見解ですが、参考にして頂ければと思います。
品番3桁バイオリンは値段の割にはそれなりに良い音がします。
エターナルシリーズはバイオリン自体がよく共鳴してくれます。もちろんNo.1100よりもNo.1300の方が音の深みがあります。
そしてNo.2000のエビデンスですが、バイオリン自体がしっかりと響いてくれるのはもちろん、その周りの空間も共鳴してくれるので、弾いていて本当に気持ちが良い楽器です。
エターナルと比較すると、低音(G線)のハイポジションがよりしっかりと鳴る印象があります。
今まで様々な楽器を試奏して来ましたが、値段で勝負するなら、同価格帯の海外製のバイオリンよりも鈴木バイオリンの方がよく鳴る気がします。
もちろん個体差や好みはありますが、海外製の200万円前後のバイオリンと比べると、エターナルも引けを取らない気がします。(特にNo.1300)
また、海外製の500~700万円前後のバイオリンとエビデンスを比べると、大抵のバイオリンよりもエビデンスの方がしっかりと鳴る印象を受けました。
600万円と700万円のバイオリンの中でも、エビデンスよりもさらに深みのある音が出るバイオリンももちろんありました。
個人の見解ですが、参考にして頂ければと思います。
久しくお休みを頂いていましたが、復帰いたしまた。
No.1800、No.2000 と実際に触れて弾く機会があるなら、大変ありがたく幸せに思います。
個人的な情報公開に繋がるのは問題ですから、簡単に話は進まないこと仕方がありません。
これからも匿名希望様の方で、愛用されて動態保存され続ければ良いと存じます。所在が半ば明らかですので、いつか試奏が実現することもあるかも知れません。
例えば、いかにかにかスズキ(バイオリン)は?と、所有者レジストリーやスズキクラブが出来ると良いかにと思います。 いつか、クラシックカーや旧車の様に、コレクターズピースを持ち寄って試奏できるイベントができなとも限りません。
愛知県芸大には、戦前の政吉後期、イタリア高級シリーズがあり、私は、これに続く戦前の梅雄初期、戦後の士郎中期と秩前期の楽器を所有し、この板にも投稿頂いたおさむ氏は、秩後期に育てられた職人が造った秩作とされる楽器を所有されます。
他に、戦後の梅雄中期から後期、秩後期の楽器を所有する方などが加わり補完されると、匿名希望様所有の楽器まできれいに繋がります。
この様な楽器が何台も現れると鈴木のフラッグシップの流れが実在として見え、楽器製作の真の実力的な側面が明らかにないると思います。 EVIDENCEの裏付けが見えるようで大変興味が湧く所ですね。
いつ日か試奏が出来ることをお待ちしたいと存じます。
なお、私は、鈴木の中級楽器も多く所有(戦前の特に戦後の特と[55496]
[55496]
Re: 初めてのバイオリン購入鈴木1100番について
投稿日時:2024年11月04日 23:28
投稿者:松毬(ID:GBhpcEU)
(久しく復帰)
BM様 初めまして、こんばんは
鈴木バイオリンのサイト
No.1100 エターナル 新品税込¥495,000定価
これと同様40万円台の楽器、ネット購入を検討
Ⅰ. 練習で使わない方がいいレベル?
初心者の練習で、問題になることはないと思います。
Ⅱ. 10万程度の楽器とと同じ様な音色だったり?
例えば、次の1).と同じようなことはありません。(でも。新品での話し)
1).鈴木バイオリンのサイト
No.510 バイオリン 新品税込¥143,000定価
2).上記以外の10万円位の楽器
ところが、上の2)の中には、時々先No.1100同等、それ以上のものがあります。
また、音色の好みは、人それぞれなので、上の2)からの楽器が良いとする方もいます。
この辺り、新品の音の硬さや経年を含め楽器選びは大変難しいところです。
そこで、鈴木での例を、先に挙げます。
次は、私が評価した所有楽器をランキングにしてみました。
順位 経年数 モデルグレード
①. 50年強 No. 360
②. 50年強 No. 330
③. 40年強 No. 280
④. 40年強 No. 330
⑤. 40年弱 No.1200
⑥. 40年弱 No. 550
⑦. 30年弱 No. 540
⑧. 40年強 No. 360
⑨. 30年強 No. 540
⑩. 20年弱 No. 500
モデルグレードと私の音の評価は、私が求める音と異なり同じにはなりません。他の人が評価するとまた異なったランキングになると思いますが、同じようにモデルグレードとは一致しないでしょう。
・経年の影響があること、に加え
・同じモデルNo.でも製作年によって、製作思想も作りも少しずつ変わっています。
・楽器は、奏者との相性によります。
私の評価でも概ね経年効果は現れます。
経年による音の変化は、概ね20年ほどで落ち着くと言われ、後の変化はよりゆっくり現れます。
造りは、少しずつ変化があり改良や製作ラインの変更など色々理由があるようです。
私のTOP3は、今販売はありませんが、今の新品価格を推定すれば10万円ほどに相当するので、問い Ⅱ は、あり得えると分かります。
次に、鈴木以外については、鈴木の例と比べ物にならないほど多くの楽器があり、書くことができないほど、あり得るでしょう。
楽器の値段は、音色では決まって居ないので、この様なことが起こります。
値段は、コストに利益と骨董性できまり、一方、音は、経年と造りで決まります。量産、低コスト、薄利多売などでも、経年と造りが良い楽器に偶然にも時々出会います。
この様な事情もあるので、楽器購入は弦楽器店を巡って試奏もして相性もみて、何挺か先生に候補を選んで貰うと良いでしょう❗その中からお気に入りの一挺を買う❗❗
これが不具合のない楽器購入の王道です。
BM様 初めまして、こんばんは
鈴木バイオリンのサイト
No.1100 エターナル 新品税込¥495,000定価
これと同様40万円台の楽器、ネット購入を検討
Ⅰ. 練習で使わない方がいいレベル?
初心者の練習で、問題になることはないと思います。
Ⅱ. 10万程度の楽器とと同じ様な音色だったり?
例えば、次の1).と同じようなことはありません。(でも。新品での話し)
1).鈴木バイオリンのサイト
No.510 バイオリン 新品税込¥143,000定価
2).上記以外の10万円位の楽器
ところが、上の2)の中には、時々先No.1100同等、それ以上のものがあります。
また、音色の好みは、人それぞれなので、上の2)からの楽器が良いとする方もいます。
この辺り、新品の音の硬さや経年を含め楽器選びは大変難しいところです。
そこで、鈴木での例を、先に挙げます。
次は、私が評価した所有楽器をランキングにしてみました。
順位 経年数 モデルグレード
①. 50年強 No. 360
②. 50年強 No. 330
③. 40年強 No. 280
④. 40年強 No. 330
⑤. 40年弱 No.1200
⑥. 40年弱 No. 550
⑦. 30年弱 No. 540
⑧. 40年強 No. 360
⑨. 30年強 No. 540
⑩. 20年弱 No. 500
モデルグレードと私の音の評価は、私が求める音と異なり同じにはなりません。他の人が評価するとまた異なったランキングになると思いますが、同じようにモデルグレードとは一致しないでしょう。
・経年の影響があること、に加え
・同じモデルNo.でも製作年によって、製作思想も作りも少しずつ変わっています。
・楽器は、奏者との相性によります。
私の評価でも概ね経年効果は現れます。
経年による音の変化は、概ね20年ほどで落ち着くと言われ、後の変化はよりゆっくり現れます。
造りは、少しずつ変化があり改良や製作ラインの変更など色々理由があるようです。
私のTOP3は、今販売はありませんが、今の新品価格を推定すれば10万円ほどに相当するので、問い Ⅱ は、あり得えると分かります。
次に、鈴木以外については、鈴木の例と比べ物にならないほど多くの楽器があり、書くことができないほど、あり得るでしょう。
楽器の値段は、音色では決まって居ないので、この様なことが起こります。
値段は、コストに利益と骨董性できまり、一方、音は、経年と造りで決まります。量産、低コスト、薄利多売などでも、経年と造りが良い楽器に偶然にも時々出会います。
この様な事情もあるので、楽器購入は弦楽器店を巡って試奏もして相性もみて、何挺か先生に候補を選んで貰うと良いでしょう❗その中からお気に入りの一挺を買う❗❗
これが不具合のない楽器購入の王道です。
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